北方領土

松前藩士らの墓 択捉島に今も 江戸時代後期の警備拠点

07/20 05:00
択捉島の警備に当たった盛岡藩ゆかりとみられる石。「文化九壬申歳」(1812年)の文字が読み取れる。倒れて土に埋まっていた(マリヤ・プロコフィエワ助手撮影)
択捉島の警備に当たった盛岡藩ゆかりとみられる石。「文化九壬申歳」(1812年)の文字が読み取れる。倒れて土に埋まっていた(マリヤ・プロコフィエワ助手撮影)
  • 択捉島の警備に当たった盛岡藩ゆかりとみられる石。「文化九壬申歳」(1812年)の文字が読み取れる。倒れて土に埋まっていた(マリヤ・プロコフィエワ助手撮影)
  • 松前藩士らの墓 択捉島に今も 江戸時代後期の警備拠点
  • ロシア名でブフタ・ザラタヤ(金の湾)と呼ばれる振別。墓地は標高10メートルほどの右手高台にある(写真4枚を合成)
  • 明石季賢の墓
  • 藤原正蔵の墓
  • 村田亀之丞の墓
  • 墓地の付近はヒグマが多く出没する。水産会社経営セルゲイ・シュタリョフさん(57)は猟銃を持って案内してくれた

 【ユジノサハリンスク細川伸哉】北方領土の択捉島に、江戸時代後期にロシアの南下に備えて警備に当たった東北地方や松前藩の藩士らの墓が残されていることが、北海道新聞の現地取材で分かった。通商を求めるロシアとの係争が本格化した19世紀初頭から、1855年の日露通好条約で国境画定するまでの時期に設置されたとみられる約20基で、専門家は「貴重な歴史遺産だ」として保全の必要性を訴えている。

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 北海道新聞ユジノサハリンスク支局のマリヤ・プロコフィエワ助手が6月中旬、3年前に墓を発見したというロシアの水産会社経営者の案内で取材した。

 墓は択捉島中部の振別(ふれべつ)で見つかった。ロシアは1807年、江戸幕府が開港要求を拒絶したことを受け、択捉島の紗那を襲撃。その後、振別が択捉島の警備拠点となり、蝦夷地(えぞち)を直轄領とした幕府が東北諸藩に警備を命じた。戦前まで日本の漁場があったが、現在は人は住んでいない。

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