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【寺島光一郎さん】道内最多選 9期36年間務めた乙部町長退任

05/16 14:48 更新
寺島光一郎さん(小葉松隆撮影)
寺島光一郎さん(小葉松隆撮影)
  • 寺島光一郎さん(小葉松隆撮影)
  • 乙部町長に初当選して間もない1983年8月、当時の横路孝弘道知事(左)の視察に同行する寺島光一郎さん(右)=寺島さん提供

 檜山管内乙部町長を9期36年間務めた寺島光一郎さん(75)が4月30日、任期満了で退任した。北海道町村会長や全国町村会副会長を歴任して政界や中央省庁に幅広い人脈を築き、道の支庁再編を巡っては高橋はるみ前知事と激しく対立し「物申す町長」として存在感を示した。9期は道内の首長で最多選記録。首長はどうあるべきか―。寺島さんに36年間の経験から語ってもらった。(藤本陽介)

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■理念消えた支庁再編。道民のため機能しているか検証を

 ――引退はいつ決めましたか。

 「4年前(2015年)の町長選に出る時には決めていました。首長の引き際は任期を全うできるうちに決めるべきです。それが有権者への礼儀ではないでしょうか。年齢や体力、気力を考えて引き際だと判断しました」

 ――多選に対する批判についてどう考えますか。

 「全然、気になりません。私は一期一期、一生懸命に務めてきました。町長として自分が役に立たないと思ったら辞めようと思っていました」

 ――任期中、町長として最も苦労したことは。

 「町国保病院の医者探しです。地方に来てくれる医者は少ない。医者の退職1カ月前になっても後任が見つからないことが何回もあって、プレッシャーで夜中に汗をかいて起きたこともありました。九州にも行き、酒を飲んで意気投合して『乙部に来ませんか』とくどく。これまでに18人の医者を招聘(しょうへい)しました。医者の争奪戦に勝ち抜くには『あなたが町長の町なら行く』と思ってもらわないとね。ただ、医者探しが町長の一番重要な仕事というのはいびつです。本来は国や道が解決すべき問題。言い訳ですが、医者探しの苦労がなければ、もっと良いまちづくりができたかもしれません」

 ――道の14支庁の再編では、乙部町がある檜山など5支庁を出張所に格下げする案に反対し、高橋前知事と激しく対立しました。

 「道の当初案は14支庁を6圏域に再編する一方で、市町村には道の権限を移譲するという内容でした。それなら良かったんです。ところが、政治家などからさまざまな横やりが入って、残す地域がいつの間にか九つまで増えた。そのほかは出張所にするという。分権の理念も何もあったものじゃない。私は筋が通らないことが嫌いです。北海道のためにならないと思ったから最後まで闘いました」

 ――支庁再編は看板の掛け替えに終わっただけと言われます。

 「ただ、行革のために中途半端な組織再編はしました。例えば、道の出先機関だった土木現業所は、総合振興局の一組織に統合された。檜山を管轄する『函館建設管理部』は、渡島総合振興局の中にあるんです。だから江差町の道道で被害が出ても、現場を熟知している江差の檜山振興局長が最終的な責任者として指示できません」

 ――総合振興局と振興局の間には格差があると。

 「札幌建設管理部が札幌の石狩振興局にあるのではなく、岩見沢の空知総合振興局の一組織というのも不自然で非効率です。本当に道民のために機能しているのか、検証する時期に来ています」

 ――高橋前知事をどう評価しますか。

 「トップは『私はこう思う』と明確に示すべきです。柿が熟して落ちてくるのを待っているのでは遅い。何事も先を見て判断する必要があります。鈴木直道知事は前知事の反省を踏まえてほしい」

■町民と共に目指してきたのは精神的な誇りを持てる町

 ――全国町村会の副会長として道内外の町村長と接した経験から感じたことはありますか。

 「東北など道外の自治体では町村長と県知事の関係が近いと感じました。飲んでいる席でも町村長同士で良いアイデアが出ると、その場から知事に電話をかけてコンタクトを取る場面もよく見られました。北海道と違って県が小さいから知事も一人一人の町村長の顔が分かるというのもあるでしょう。でも私が知る限り、北海道は知事と町村長の関係が比較的、疎遠でした。それが他県に比べて弱みですね」

 ――36年間の在任中、何を目指し、何をやり遂げたと思いますか。

 「乙部は何かがあれば町民が一枚岩に結束するし、乙部出身だと胸を張って言える町だと思います。みんなでそういうまちを目指してきました。良い町というのは精神的な誇りを持てるかどうかです。私の実績ではありません。やり遂げたことと言っても、『○○を造った』などと言う時代は終わりました」

 ――印象深い出来事は?

 「在任中の1993年7月に北海道南西沖地震が起きました。地震発生の翌朝、奥尻の越森幸夫町長(当時)に電話が通じて欲しいものを聞いたら『水だ、水だ』と言うんです。船団長に頼み、漁船に大型水槽とポリタンク、非常食を積んで向かってもらった。被災後、初入港した漁船で島全体の被害状況を調べてもらった。震災前の5月に完成した乙部の公共ヘリポートからは自衛隊などのヘリで物資や人を運びました。ヘリポートは当初、防災目的ではなかったのですが、大変役に立ちました」

 ――今回の統一地方選では道内4町村で定数割れとなるなど議員のなり手不足は深刻です。

 「議員になる人が足りないなら合併した方がいい。自治体としての活力がなくなっているということだからね。議員報酬を上げればいいという話ではない。経済ベースで考えることではありません。議員になる人が減ったのは『道路を造れ、港を造れ』という時代ではなくなり、ある程度、満ち足りた成熟社会となった結果、『自分が議員になって変えていかなければ』と思う活力が薄れてきているからではないでしょうか」

 ――町長という仕事は重責ですが割に合いますか。

 「割に合うかどうかは分かりませんが、命を懸けてやるなら、やりがいはある仕事です。古里を良くしたい、町民に喜んでもらいたくて取り組んできました」

 ――新しい町長に望むことは。

 「町政で迷った時は『町民の利益になるかどうか』を基本に考えれば、大きな間違いはしないと思いますよ。新たな視点に立ち、人口が減っても町民が誇れるまちづくりに取り組んでくれることを期待します」

<略歴> 1944年、檜山管内乙部町生まれ。札幌南高、北大農学部を卒業後、旧農林省(現・農林水産省)に入省した。大臣官房企画官、岡山県津山営林署長、林野庁職員部企画官などを経て、83年に38歳で乙部町長に初当選した。初当選は選挙戦となったが、その後、8期連続で無投票当選。2005年に北海道町村会会長、07年に全国町村会副会長に就任。15年5月、いずれも退任した。乙部町在住。

<ことば>支庁再編 明治期から続いた道の14支庁体制を変更し、9総合振興局、5振興局体制とした道の行政改革。高橋はるみ前知事が公約にしており、2010年4月に実施された。網走支庁はオホーツク総合振興局となり、幌加内町は空知管内から上川管内に、幌延町は留萌管内から宗谷管内にそれぞれ移った。

 実現までは混乱が続いた。道議会は08年6月、振興局を総合振興局の「出張所」と位置づける再編条例を可決。しかし、北海道町村会などが反発し、施行の前提条件となる国会での公職選挙法改正の見通しが立たなくなった。道は「出張所」の表現を削除する改正条例案を改めて提出し、09年3月に成立した。総合振興局と振興局は同列となったが、道は総合振興局への広域事務の集約を進めた。

<後記> 寺島さんの“武勇伝”といえば、2008年、乙部町が「磯焼け」対策で行ったイカゴロ(イカの内臓)の海中投棄を巡る道との対立もよく知られる。海洋汚染防止法違反として中止を求めた道に「漁業生産目的で問題ない」と反発。道が法解釈の誤りを認め、高橋前知事が陳謝した。支庁再編を含め、小さな町の町長が巨大組織の道と闘う姿は印象的だった。引退理由に「気力、体力ともに厳しい」と語り、今後について「考えていない」と話した。だが、「筋が通らないことには最後まで闘う」と繰り返す言葉は力強く、現役をまだ続けられそうな迫力だった。

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