本の森

<書評>一億円のさようなら

09/09 05:00
<書評>一億円のさようなら

白石一文著

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妻の秘密を知った夫の「なぜ」
評 永江朗(ライター)

 「1億円が当たったら」と宝くじを買うとき、誰しも思うだろう。では、長年連れ添った妻が巨額の資産を隠し持っていたと知ったらどうか。

 主人公は52歳の男。東京の医療機器会社をリストラされ、福岡の化学メーカーに転職して10年近い。しかし転職先でも左遷の憂き目に。創業者の孫であるにもかかわらず。

 男は1本の電話をきっかけに、妻が伯母の遺産を相続していたことを知る。その額、34億。そのうち投資した2億が増えて総額48億円。なぜ妻はその金を使わなかったのか。そもそも、なぜ夫である自分に隠していたのか。男の頭の中は疑問と疑念でいっぱいだ。遺産の一部でも使えば、困ったあのときや苦しかったあのときが、もっと楽だったろうに。「もしも」という思いが次々と浮かんでくる。

 追い打ちをかけるようなことが続けて起きる。鹿児島の大学に進んだ息子は、男の従弟の娘と同居しているという。長崎で勉強している娘は妊娠しているという。しかも妻はそのことを知っていて、家族の中で知らないのは男だけだった。家族4人で信頼し合って生きてきたと思っていた男にとって、驚くようなことばかりである。

 納得できない男の前に、妻は現金1億円を置く。大金を手にした感覚を知りなさい、というのである。何もかもが信じられなくなった男は、ひとり金沢へと旅立つ。

 以上が物語前半のあらすじである。荒唐無稽な設定のようだが、たとえば48億円でなく48万円のヘソクリなら誰にでもありそうだ。妻ではなく夫が隠している場合だってあるだろう。息子や娘が親の知らないところで勝手なことをしている、というのもよく聞く話だ。

 あなたに見えている世界がすべてではない。長年連れ添った配偶者にも、赤ん坊の時から育てた子どもにも、苦楽を分かち合った同僚にも、あなたには見せないもうひとつの顔がある。

 来し方を問い直す大人のための、良質な娯楽小説である。(徳間書店 2052円)

<略歴>
しらいし・かずふみ 1958年生まれ。2010年「ほかならぬ人へ」で直木賞

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