富士通総研 内外経済トピックス

キャッシュレス社会デンマーク デジタル化推進の背景にあるもの

05/07 10:55

富士通総研経済研究所上級研究員兼
慶應義塾大学GICセンター非常勤講師
森田 麻記子

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「クレジットカードの暗証番号が思い出せない…」

 今から約10年前、2008年の夏。

 私は、普段から使い慣れていない4桁の番号を必死に思い出そうとしていた。交換留学をきっかけに初めて暮らすことになったデンマーク。なにもかもが「初めて」という不安のなか、スーパーの列に並んでいた。

 ふと、周りの状況をうかがうと、ほとんどの買い物客が「ICチップ」の付いたカードを、レジに備え付けられた小さな装置に挿入している。サインレスで暗証番号らしきものを入力し、支払いを済ませているようだ。そのせいか、列の進み具合が早い。あっという間に私の番になり、何とか番号を思い出して支払いを済ませ、ことなきを得てほっとしたことを覚えている。

 デンマークにいると、どこへ行っても暗証番号の入力が身近にあった。

デンマークの大型スーパーマーケット。このようなセルフ支払い機も日常的だ。画面右にある「カード用の装置」が店員のいるレジにも設置されている(筆者撮影)
デンマークの大型スーパーマーケット。このようなセルフ支払い機も日常的だ。画面右にある「カード用の装置」が店員のいるレジにも設置されている(筆者撮影)

ATMより便利。デビットカードが活躍

 「あなたもデンマークで口座を作るといいよ! そうすると、カードも作れるから」

 普段からデンマーク国外のクレジットカード払いが可能かどうかを気にしていた。そんな私にある日、デンマーク人の友人が、英語版でも充実したウェブサイトをもつデンマークの大手銀行を勧めてくれた。詳しく聞いていると、デンマークで普及しているのはクレジットカードではなく、当時の私には全く馴染みがなかった「デビットカード」というものであった。支払った金額は即時に自分の口座から引き落とされ、タイムラグはほとんどない。彼女のようなデンマーク人にとって、デビットカードはすっかり日常の一部である。そんな方法があるのかと感心し「ものは試しだ!」と早速、口座を開設した。

 こうして私も、デビットカード所持者としてデビューすることになった。

 デンマークでは1983年から、「ダンコート(Dankort)」と呼ばれる、特定の銀行や地域に依拠しない全国規模のデビットカードシステムが導入され、老若男女に幅広く普及している。小さな商店やデンマークでよく見かける「キオスク」と呼ばれる売店では、ダンコートしか受け付けないことが多い。

 また、ダンコートには一定額以下であれば支払い時にレジで現金を引き出すことができる「キャッシュアウト」機能も付いているのが魅力だ。ほぼ現金がなくても困らないデンマークとは言え、いくらか現金が必要な場合がある。そんなときは、例えば買い物ついでのレジで「100クローナを引き出したい」と伝えることにより、ATMに出向かずとも現金が手に入るのだ。

 交換留学生時代に手に入れたカードは一般的なデビットカードであったが、デンマークで職を得た2012年、私もダンコートの所持者となった。デンマークでの住民登録があることと、継続的な一定収入を証明することにより、外国人でも持つことができるのだ。

 ここに、興味深いデータがある。

 「20%」。デンマークの店舗における「現金」による支払いの割合だ。

 ユーロ圏でのこの数字は「79%」であることから、デンマークでの現金支払率が非常に低いことが分かる。さらに2013年、デンマークでは「モバイル・ペイ」(mobile pay)と呼ばれる新たなスマホ決済方法が登場。今ではデビットカードに肩を並べるほどの認知度を誇り、この数字にも十分に貢献している。

 アプリを使用することにより、商店と個人間だけではなく、個人と個人の支払いも瞬時に完了する。デンマークで友人たちとレストランなどで食事を楽しむ際、この「モバイル・ペイ」は大活躍する。

デンマークで普及が進むスマホ決済「モバイル・ペイ」。このパネルにスマホをかざして支払う(筆者撮影)
デンマークで普及が進むスマホ決済「モバイル・ペイ」。このパネルにスマホをかざして支払う(筆者撮影)

国を挙げてのテクノロジー推進

 このようなデンマークのキャッシュレス化の背景には、デンマーク政府が推進する、国を挙げての「デジタル化」がある。

 この大規模な「変化」と「挑戦」の裏には、どのような社会動向があったのだろうかー。

 実は、デンマーク社会で課題と認識されていることは、日本と変わらない。その一つは、長期に緩やかなペースで上昇し続ける「高齢化率」と、それに伴う労働力の縮小に対する懸念である。

 ただし「就業率」が男女でほぼ変わらないという点が、日本とは異なる。また、今以上に労働力として「移民」を受け入れる政策は、現在のデンマークの政治状況からみると考えにくい。

 このような状況で、生産性と効率性を保ちながら社会を動かしていくために、デンマーク政府は「テクノロジーの導入」へ期待を寄せたのであった。キャッシュレス化はその一つの動向に過ぎず、日常生活のあらゆるシーンで、デジタル化推進への挑戦と実行がみてとれる。

 キャッシュレス化がトレンドとなる以前に行政サービスと医療サービスのデジタル化が起こった。

 1968年に導入され、ことしで50年目を迎えたデンマーク版マイナンバー「CPRナンバー」を活用したシステムの導入により、ほとんどの行政サービスは「オンライン上」での手続きが可能となった。少数の例外を除き公的機関から郵送で文書が届くことはない。

 また、医療機関のサービスでは、処方箋はオンライン上でクリニックから自動的に薬局へ渡り、紙で受け取ることはない。診療や検査結果はポータルサイトにログインすれば、いつでも自身で確認ができる。さらに、これから全国的に導入の予定があるサービスとして「Doctor in the pocket(ポケット医)」と名付けられたスマホアプリがある。より簡単に診療予約ができ、服薬に関する情報などをかかりつけ医と患者が共有するサービスだ。

 このようなデジタル化の一端を担うキャッシュレス化の動きであるが、カード決済やスマホ上での取引までが徐々に当たり前のものとなってきている一方、不安要素も現れ始めている。

 それは「若者の金銭感覚」である。

 現金に触れたことがない若者。日本では、交通系ICカードの浸透以降、「切符」を握りしめたことがない子供が増えてきている、と聞いたことがある。そんな感覚だろうか。そこでデンマークでは、若者が金融について学ぶことにも注目が集まりつつあり、具体的な教育プログラムやアプリが普及し始めている。その役割は今後ますます重要視されるだろう。

内村鑑三がみたデンマークの精神

 ここに、ひとりの人物と一つの講話録がある―。
 「デンマルク国の話―信仰と樹木とをもって国を救いし話」

デンマークの牧場。寒冷な気候で、海に囲まれた土地に人口575万人の人びとが住む。どこか北海道の地を思わせるようだ(筆者撮影)
デンマークの牧場。寒冷な気候で、海に囲まれた土地に人口575万人の人びとが住む。どこか北海道の地を思わせるようだ(筆者撮影)

 明治初期、札幌農学校(現・北海道大学)で水産学を学んだのち、札幌独立キリスト教会を創立した思想家、内村鑑三氏によるものである。彼がさまざまな資料から見聞きした「デンマーク」という国が、こう記されている。

 「この小国のけっして侮るべかざる国である」

 背景には、デンマーク人たちの「強い国民精神」と「実行力」がある。最も豊かであった南部の領土をプロイセン・オーストリア連合軍との戦争(デンマーク戦争)によって失いながらも、デンマーク人は「国の復興」という社会課題に向きあい、徐々に国土を豊かにしていった。

 大局的な視野を持つデンマーク人たちの考えと行動力を知った内村氏は、このような言葉に表した、という。

 この精神は、革新的なアイデアをとりいれながらも、試行錯誤を繰り返し、新たなデジタル化社会の土台を築いている現代のデンマーク社会へも引き継がれているのではないだろうか。

 今まさに、新たな挑戦を続けながらも、試行錯誤の時を迎えているデンマーク。

 政府は、現段階で現金を完全に失くすことはないと正式に発表している。しかし、通貨の一部については、自国での製造をストップし国外にアウトソースするなど、キャッシュレス化に向けて着々と準備を進め、今後の動向が注目される。

 当時の内村氏が感じたように、同じ課題を抱えている他国がどのようなアプローチをしたかを知ることは重要だ。そこからさまざまな刺激を受け、自国の取り組みを見つめなおしていく、これもまた重要と考える。

もりた・まきこ 2010年、神戸大学人間発達環境学研究科修了。2012~2016年デンマーク国立オールボー大学政治学部在籍。主な専門は、社会政策学(高齢社会政策、介護)。1984年大阪生まれ。趣味は、デンマーク生活で始めたズンバ(ダンスエクササイズ)
もりた・まきこ 2010年、神戸大学人間発達環境学研究科修了。2012~2016年デンマーク国立オールボー大学政治学部在籍。主な専門は、社会政策学(高齢社会政策、介護)。1984年大阪生まれ。趣味は、デンマーク生活で始めたズンバ(ダンスエクササイズ)


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