<書評>これは水です

09/02 05:00

デヴィッド・フォスター・ウォレス著

既成の価値観疑うものの見方
評 八木寧子(文芸批評家)

 「これは水です」

 なんとシンプルで力強く、示唆に富んだ言葉だろうか。

 この短文に集約される本書は、米国の作家であったウォレスが、生涯にたった1度、大学の卒業式に招かれてスピーチしたメッセージだ。彼が赴いたのは、「リベラル・アーツ(人を自由にする学問)」を掲げる大学だが、ここでウォレスは一般的な定義、「ものの考え方を教えること」が真に実感できるのは社会に出てからであり、その奥義は「なにをどう考えるか」をコントロールするすべを学ぶこと、意識してこころを研ぎすまし、「何に目を向けるか」と、「経験からどう意味を汲みとるか」を選ぶことにあると説く。

 ウォレスは30分ほどのスピーチ(音声はいまも無料動画サイトで聞くことができる)のなかで、自由の学府を出た多くの者が手にするのは、「来る日も来る日も」同じ「退屈/決まりきった日常/ささいな苛立(いらだ)ち」にまみれた日々なのだと告げる。だからこそ、そこから自由になるための方策を、自らの経験則として愚直に伝えようとする。

 「ほんの数分でいいから、ごくわかりきったことが持つ価値について/疑う気持ちをカッコにくくってほしい」

 「眼前でなにが進行中か/ただ目を凝らすだけでいい」

 「ほんとうに大切な自由というものは(略)無数のとるにたりない、ささやかな行いを/色気とはほど遠いところで、毎日つづけること」

 「水とは何か」「どんな水か」という問いの前にある、「これは水」というシンプルな事象を受けとめること。頭の「初期設定=オートマチックで/無意識まかせの思考法」をリセットし、既成の価値観を疑い、対象と向き合い、ルーティンの中に真理を見いだすこと。ウォレスの言葉は、マインドフルネスや仏教思想、東洋哲学にも通じる。

 今年上半期、「ものの見方」を説く吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』が再読された。どちらも、誠実な“先輩”からの言葉の花束である。(阿部重夫訳/田畑書店 1296円)

<略歴>
1962~2008年。村上春樹編訳「バースデイ・ストーリーズ」に短編「永遠に頭上に」が収録されている