75年目の硫黄島

あの激戦から75年。令和の時代を迎えても、硫黄島(東京都小笠原村)には多くの遺骨と戦跡が残されている 米軍機を迎え撃った高射砲 米国が開発・製造した30トン級戦車「M4中戦車」、通称シャーマン(Sherman)。高い機動力と火力が特長だった
トーチカの残骸も残る
砂浜には朽ちた船が約500メートルにわたって点在していた
日本軍、最期の突撃壕とみられる出口
上陸海岸。1945年2月16日、米軍の艦隊と航空機による猛攻撃が始まった。3日後、米軍は島南東部の海岸から上陸した
大航海時代の1543年、スペイン戦艦により確認。ただし、価値が見いだせず、各国とも放置していた
(共同)
島の主要産業は当初、硫黄の採掘だったが、その後、サトウキビやコカ、レモングラスなどを栽培するようになった。自給食糧が豊かで、貨物船が届ける物品も十分だったという
(全国硫黄島島民の会提供)
硫黄島の戦い当時の北海道新聞に掲載された地図。連日、報道された
遺骨の捜索作業
(日本戦没者遺骨収集推進協会提供)
硫黄島の遺骨収容数は約1万470柱、未収容は約1万1430柱。日本軍は地下壕を駆使して戦ったため、地下で命を落とした兵士も多いとみられる
(日本戦没者遺骨収集推進協会提供)
バロン西(西竹一男爵)の石碑。馬の蹄鉄が置かれていた。1932年ロサンゼルス五輪馬術障害飛越の金メダリスト。戦車第26連隊長として硫黄島の戦いで戦死
米国海兵隊、第三・第四・第五師団協会、硫黄島協会による石碑「日米再会記念碑」
硫黄島島民平和祈念墓地公園にある祈りの塔「やすらぎ」。島民のうち16歳以上の少年を含む男性約100人は軍属として徴用され、大半が戦死した
硫黄島には全国から応召兵が集められていた。摺鉢山山頂には日本列島を刻んだ「硫黄島戦没者顕彰碑」がある
摺鉢山にはアメリカ軍が星条旗を掲げた。米軍も米海兵隊上陸記念碑を建てている
硫黄島の戦いの戦没者は
北海道出身者約700人を含む2万2千人

今も1万1000人超の遺骨が眠っている

2020年8月5日公開
写真
酒井聡平(東京報道センター)
全国硫黄島島民の会
日本戦没者遺骨収集推進協会
編集
田中徹(デジタル編集委員)
津田祐慈(編集本部)