2019年の北海道知事選は、鈴木直道氏が石川知裕氏との新人対決を制し、16年ぶりに新知事が誕生した。道知事選の新人対決は今回を含め7度あり、現職が不出馬に至る経緯や候補擁立を巡る駆け引きなどでドラマチックな展開を見せ、激戦になることも多かった。それぞれの時代の節目に、道政の新たなリーダーの座を懸けて争われた選挙を、当時の北海道新聞の記事を再構成し振り返った。

2003年 乱立、勝者は

高橋はるみ氏(49)
=無所属(自民、保守新党推薦)

得票率

鉢呂吉雄氏(55)
=無所属(民主、自由、社民推薦)

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

堀氏擁立を軸に調整、自民確認

 2003年1月14日。自民党道連は役員会を開き、4月の道知事選について堀達也知事擁立を軸にした調整を北村直人会長に一任することを再確認した。町村信孝総務局長が高橋はるみ氏に出馬要請したことについては、道議から「有権者に自民党が分裂した印象を与える行為」と非難する声が上がった。

堀知事が3選出馬断念

 1月16日。堀達也知事は道庁で記者会見し、道知事選への3選出馬を断念し引退することを表明した。理由について「これからは新しい価値観を持ったリーダーシップが求められる」と説明した。3選出馬の意向を年末に自民党に伝えながら出馬断念に追い込まれたことに対しては、同党への不信感をにじませる発言もあった。

ニセコ町長の逢坂氏が不出馬表明

 2月2日。知事選に出馬する方向となっていたニセコ町の逢坂誠二町長(44)が記者会見し、不出馬を表明した。「私は中立だと言っても民主党・連合の側だと思われ、このままでは(知事になっても)自分のやりたいことができない」と不出馬の理由を述べた。民主党・連合などから出馬要請を受けたことが尾を引き、政党や団体と一定の距離を置くという自身の政治姿勢を貫けない、との考えを示した。

高橋氏「潜在力引き出す」

 2月5日。前道経済産業局長の高橋はるみ氏(49)が記者会見し「北海道の潜在力を引き出したい」と述べ、道知事選に出馬表明した。当初は、1時間余りの会見に座って応じる予定だったが、直前に立ったままの会見に変更した。関係者は「首相官邸やホワイトハウスを意識したスタイル」と話していた。

鉢呂氏、任期は4年限定

 3月3日。民主党の鉢呂吉雄衆院議員=道8区=(55)は民主党北海道の中沢健次代表らに、道知事選立候補の要請受諾を伝えた。記者会見した鉢呂氏は、自らの任期を1期4年に限定する考えを示したほか、知事報酬6割削減や道政・道議会改革などを盛り込んだ「四年間の政治契約」の骨子を発表した。

史上最多9人の争いに

 3月27日。道知事選が告示され、新人9人が立候補を届け出た。史上最多の候補者による大激戦になることが確定した。9人は届け出順に、前道議会議長の酒井芳秀氏(58)、前副知事の磯田憲一氏(58)、全北海道教職員組合委員長の若山俊六氏(64)=共産党推薦=、元衆院議員で弁護士の伊東秀子氏(59)、前道経済産業局長の高橋はるみ氏(49)=自民、保守新党推薦=、農学者の都築利夫氏(72)、前衆院議員の鉢呂吉雄氏(55)=民主、自由、社民党推薦=、無職の山田得生氏(44)、元道財務局長の上野憲正氏(58)。=写真は左上から右へ

高橋氏が第一声

「北海道の潜在力や可能性を、全国や世界に発信したい」

鉢呂氏が第一声

「中央や官僚支配でなく、民間出身知事として目に見えた成果を生む」

2003年4月13日投票

(敬称略。票数は道選管による)

高橋氏、道政初の女性知事に

 道知事選は、前経済産業局長の高橋はるみ氏が初当選し、道政史上初の女性知事が誕生することになった。記者会見では「経済再建が支持されたと思う。まず雇用対策、中小企業対策に取り組みたい」と抱負を語った。後援団体の名誉会長を務める堂垣内尚弘・元道知事と手を取り合う場面もあった。

鉢呂氏「手応えあったが」

 会見した鉢呂吉雄氏は「北海道の再生に取り組みたかった。期間が短かったが、全力は尽くした」と選挙戦を総括した。そのうえで「私なりに手応えはあったが、表面的だったのかもしれない」と敗因を分析した。

(年齢や所属団体などの名称は当時)

高橋、鉢呂氏らの得票分析

(03年4月14日夕刊)

高橋氏、三つの勝因

(03年4月15日朝刊)

1995年 擁立劇急転

堀達也氏(59)
=無所属(社会、新進、公明推薦)

得票率

伊東秀子氏(51)
=無所属(自民、自由連合、新党・護憲リベラル推薦、新党さきがけ支持)

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

鳩山由紀夫氏の擁立失敗

 国政復帰を目指す横路孝弘知事の4選不出馬を受けて、社会・民社・公明などの非自民勢力は1994年8月、「ポスト横路」最有力とされた堀達也副知事に出馬を要請。堀氏は11月に出馬表明した。一方で、自民党の候補選びは混迷を極めた。自民・社会・新党さきがけの3党による連立政権が6月に誕生し、社会党との政治的な距離感が変わったのが影響した。
 自民党道連は、社会党などが推す堀氏への相乗りか、新党さきがけの鳩山由紀夫衆院議員(道4区)の擁立かを巡って分裂状態に陥った結果、鳩山氏の擁立に失敗。新たに佐藤孝行氏が党道連会長に就き出馬検討の報道があった社会党の衆院議員、伊東秀子氏(道1区)に白羽の矢を立てた。伊東氏は非自民勢力による堀氏擁立の経緯に対し、批判の声を上げていた。

社会党から自民党へ

 伊東氏は社会党を離れ、95年1月、自民党から出馬することを決意。告示2カ月前に選挙戦の構図は固まった。3月、オウム真理教事件で警視庁が山梨県内の教団施設を一斉捜索している最中に、知事選は始まった。

三浦氏も出馬、5人乱立

 告示1カ月前に出馬を決めたプロスキーヤー三浦雄一郎氏も加わり、計5人による乱戦に。4月9日の投開票の結果、横路路線の継承を打ち出した堀氏が、伊東氏に87万票差をつけて圧勝。自民陣営が候補決定を巡る混乱で出遅れたことに加え、社会党から自民党に移った伊東氏への支持が広がらず、新人対決の知事選で初めて大差がついた。
 同じ日に行われた道外知事選では、東京は青島幸男氏、大阪は横山ノック氏が当選し、「タレント選挙」で盛り上がりを見せた。しかし道知事選に対する有権者の関心はいま一つ。投票率は当時で過去2番目に低い65.9%。直近の新人対決だった12年前の知事選を20ポイント近く下回った。

1995年4月9日投票

(敬称略。票数は道選管による)

「まずは道庁改革、道政改革」

 大差での当選が決まった9日夜、堀氏は選対事務所で横路知事と握手。「まずは道庁改革、道政改革。道民とともに考え、先頭に立つ知事でありたい」と抱負を語った。堀氏はその後、知事として2期8年務め、「時のアセスメント」導入による大型事業見直しで士幌高原道路や千歳川放水路の計画中止を決定したほか、道庁不正経理問題にメスを入れるなど、道政改革で実績を残した。一方で、北電泊原発3号機増設にゴーサインを出し、道民の賛否が分かれた。また、99年の知事選では自民党からも推薦を受け、道政史上初となる保守、革新両勢力の相乗り候補として再選を決めた。

(年齢や所属団体などの名称は当時)

1983年 勝手連旋風

横路孝弘氏(42)
=無所属(社会、革自連推薦)

得票率

三上顕一郎氏(55)
=無所属(自民、公明、民社、新自ク、社民連推薦)

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

社会現象、「プリンス」動く

 堂垣内尚弘知事は3期目の任期を2年残した1981年4月、4選不出馬を表明した。当時の北海道新聞の記事は、後継候補が出馬準備の時間を確保できるように、早々に表明した可能性を指摘している。保守陣営は堂垣内氏の後継者として副知事の三上顕一郎氏を知事選に擁立することを決めた。三上氏は9月に出馬を表明した。
 道内の革新勢力は、堂垣内道政時代に市長選挙で相次ぎ敗れ、苦境に追い込まれていた。この情勢を大きく変えたのは道内の若者グループだった。彼らが担ぎ上げたのは、ロッキード事件の鋭い追及などで「社会党のプリンス」と呼ばれた衆院議員、横路孝弘氏(道1区)。「横路孝弘と勝手に連帯する若者連合(勝手連)」の運動は、社会現象となるほど盛り上がり、道政史上に残る熱い選挙戦が展開された。

東京にも事務所、全国が注目

 札幌のミュージシャンや農家らが中心となって始まった勝手連の運動は、主婦、学生、ススキノで働くホステスや料理人らと幅広い層に広がり、道内各地で横路氏を応援するコンサートや集会が相次いで開かれた。選挙戦は全国から注目を浴びるようになり、両陣営は東京に事務所を構えてタレントや文化人の支援を募るなど、熱気は道外にも拡大した。
 選挙戦最終日の夜、札幌・ススキノで行われた横路陣営のフィナーレには勝手連の小旗がさざなみのように振られ、ロック音楽に合わせた「よこみち」の大合唱が響いた。10日の投票で横路氏は無党派層の票を大きく取り込み、組織戦を展開した三上氏に小差で勝利。翌11日には、勝手連の若者ら200人が道庁前で赤いバラを掲げて行進し、横路道政の誕生を祝った。

1983年4月10日投票

(敬称略。票数は道選管による)

「イデオロギーの時代終わった」

 「もうイデオロギーの時代は終わった。560万道民の皆さんが道民党です。みんなの力で北海道をより良くしていきたい」。当選後の記者会見で横路氏は笑顔を見せた。横路氏の父は、24年前の知事選で敗れた節雄氏。父の雪辱を知事選初挑戦で果たした。横路氏は知事を3期12年務め、一村一品運動や北方四島との交流などを進める一方、89年に開いた「食の祭典」で巨額の赤字を出すなどして批判を招いた。95年に知事を引退した後は国政に復帰し、衆院議長などを歴任。衆院議員として計12期務め、2017年に政界を退いた。

(年齢や所属団体などの名称は当時)

1971年 歴史的接戦

堂垣内尚弘氏(56)
=自民

得票率

塚田庄平氏(52)
=社会(共産推薦)

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

告示2日前に情勢一変

 町村金五知事は3期目の任期が残り2年弱となった1969年6月、新知事による道政活性化を理由に不出馬を表明した。これを受け、自民党は元北海道開発事務次官の堂垣内尚弘氏を候補に擁立。一方、12年ぶりの道政奪還を狙う社会党は、4年前の知事選に続いて、北海道炭礦汽船職連委員長を経て道議会副議長も務めた塚田庄平氏を擁立した。堂垣内陣営には楽観する向きもあったが、情勢は告示2日前に急転。社会、共産両党が一度は決裂した共闘に合意し、道知事選は塚田氏が猛烈に追い上げることになった。

夫人もオレンジ・ガールズも奮闘

 自民道政の継続が最大の争点となった選挙戦。「町村氏が築いた輝かしい道政、絶対に譲れない」(堂垣内氏)、「知事の座を奪還、道政を労働者の手に」(塚田氏)と2氏の激しい舌戦が繰り広げられた。両候補を支える脇役たちも奮闘した。それぞれの夫人がテレビの番組に出演。エプロン姿で料理を作ったほか、初恋談義や夫の素顔を披露した。選挙カーに乗る女性運動員たちは、ユニホームの色から「オレンジ・ガールズ」と呼ばれ、注目を集めた。
 告示前の楽観ムードを引きずった堂垣内陣営とは対照的に、社共共闘が実現した塚田陣営は終盤にかけて猛烈な勢いで支持を伸ばした。開票の結果、2候補の差は1万3211票。得票率では0.5ポイントしか違わない大接戦を制したのは堂垣内氏だった。札幌、函館、釧路、室蘭、小樽など大票田の主要都市は塚田氏に押されたが、全道の町村部を手堅くまとめ紙一重で逃げ切った。

1971年4月11日投票

(敬称略。票数は道選管による)

「道民党」 無所属選挙の起点

 「こんな緊張感を味わったことがない。身の引き締まる思いを、そのまま道民のため役立てたい」。当選を決めた堂垣内氏は喜びを率直に語った。知事2年目の72年に札幌冬季五輪が開かれ、道内全体が活気づく中、自身はカナダなど北方圏の国々との交流や全国初の環境アセスメント条例制定など独自政策を打ち出した。再選出馬となる75年の知事選からは自民党公認を受けず「道民党」を名乗り、同年と79年、元旭川市長で革新系候補の五十嵐広三氏(のちに社会党の衆院議員となり、官房長官などを歴任)を2度破った。「道民党」という考え方は、以降の道知事選の無所属・全方位選挙の流れを作った。

(年齢や所属団体などの名称は当時)

1959年 ライバル対決

町村金五氏(58)
=自民

得票率

横路節雄氏(48)
=社会

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

道1区のライバル激突

 社会党の田中敏文氏が戦後初の北海道知事となって3期。同党道連は田中氏に4選出馬を強く求めたが、本人は健康上の問題を理由に固辞し、1958年8月に擁立を断念した。同じころ、自民党は衆院議員の町村金五氏(道1区)を担ぎ出す。町村氏は戦前に富山県知事や新潟県知事、警視総監を経験しており、初の保守道政樹立に向けた大本命だった。社会党は田中氏の後継候補として、同じ道1区選出の衆院議員で町村氏のライバル・横路節雄氏の擁立を決定。元日教組副委員長で、安保問題追及でも鳴らした実力派弁士だった。町村氏、横路氏ともに中央政界に軸足を置き、知事選には当初消極的だったが、地元の強力な働きかけで出馬に踏み切った。自民党と社会党が鋭く対立した55年体制の下での初の道知事選となった。

道庁内で「スパイ合戦」

 町村氏と横路氏は自民党、社会党それぞれの有力代議士。当時の報道によると、道庁内では各候補に関わる職員が相手陣営の情報を探り合う「スパイ合戦」の様相を呈したという。告示後の59年4月、札幌市の中央創成小で開かれた道知事選初の立会演説会は、千人を超える聴衆で会場が埋まった。選挙戦終盤には応援演説のため、自民党からは岸信介首相、社会党からは鈴木茂三郎委員長と、大物弁士が道内入りした。
 投票は4月23日。横路氏は、田中道政時代に起きた道職員による食糧費の不正流用事件などが響き、社会党の支持基盤である農村部で票が伸びなかった。一方、政権とのパイプが強みの町村氏は、開発予算獲得への期待を背景に票を伸ばし、僅差で勝利した。同日に投票された道議選も自民党が過半を制し、道内の政情は革新から保守へと一気に勢力図が塗り替えられた。

1959年4月23日投票

(敬称略。票数は道選管による)

「飽きられたからでしょう」

 「社会党の12年の道政が飽きられたからでしょう。候補のよしあしは極めて少なかった」。当選後、町村氏は北海道新聞の取材に答えている。町村氏は道内酪農の草分けである町村金弥氏の五男。3期12年の任期中は高度成長の波に乗って国家予算を投入する大規模な北海道開発を推進。青函トンネル、石狩湾新港、苫東基地建設への道を開いた。知事退任後は参院議員に転出した。町村氏の政治的地盤は、次男の信孝氏が引き継いだ。信孝氏は衆院議員を12期務め、官房長官、外相、衆院議長などを歴任した。

(年齢や所属団体などの名称は当時)

1947年 「初代」懸け

田中敏文氏(35)
=社会

決選投票
得票率

有馬英二氏(65)
=民主

※小数点第2位以下を切り捨てたため、合計は100%にならない

30歳の年の差対決

 戦前まで行われていた、国が北海道庁長官を決める「官選長官」制度に代わり、道民自らが北海道の「民選長官」(選挙後間もなく知事に名称変更)を選ぶ選挙が戦後初めて行われ、1947年(昭和22年)4月5日に投票された。出馬した6人とも法定得票に届かず、上位2候補による決選投票となった。2候補は、社会党公認で全道庁労組委員長の田中敏文氏と、進歩党の衆院議員だった有馬英二氏(投票直前の3月末、政界再編で進歩党は民主党に)。35歳の田中氏は道の林政部係長で、ほぼ無名の候補だった。対する有馬氏は北大医学部教授から衆院議員に転じた65歳。30歳も年の離れた候補同士の対決となった。食糧不足や極東国際軍事裁判など敗戦の空気が残る中、北海道の民主主義の一ページが開かれた。

決め手は労働者の票

 4月16日に行われた決選投票は、革新系候補の田中氏と保守系候補の有馬氏による真っ向勝負となった。大きなうねりとなったのは、保守系政党による既成政治に反感を抱く労働者の票だった。空知や上川、十勝管内の農村部、そして労働組合の力が強い炭都・夕張で田中氏への支持が広がり、札幌や小樽、旭川など主要都市で優位に立つ有馬氏を僅差で破った。戦後初の道知事選は革新勢力が制した。

1947年4月5日投票
(第1次投票)

(敬称略。票数は道選管による)

1947年4月16日投票
(決選投票)

(敬称略。票数は道選管による)

35歳、係長から道庁トップに

 35歳で道の係長から道庁トップに駆け上がった田中氏は、「時代の寵児」ともてはやされた。当選の翌月、「公選知事に何を期待するか」をテーマにしたイベントに参加。3千人の市民が札幌市の大通西4丁目の会場に集まった。北海道新聞の記事によると、ある母親からは「ミルク不足のため子供が日に日にやせてゆきます。どこへ相談してもとりついでくれません」という声が寄せられた。目に涙を浮かべた田中知事は「誠意をもってよいようにします」。坊主頭の由来についての質問には「多忙なためで、軍国主義の遺物ではない」と答えてみせた。田中氏は3期12年、食糧確保や石炭増産など戦後の重い道政課題と向き合った。47歳で知事を退任してからは、政界と距離を置いた。一方、有馬氏は参院議員のほか北星学園の初代理事長を務めた。

(年齢や所属団体などの名称は当時)
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