令和の硫黄島
~残された戦後~
太平洋戦争屈指の激戦地、硫黄島。日本本土に対する戦略爆撃の足がかりにするため、米軍が攻略。日本軍兵士は、総勢2万3千人のうち北海道出身の約700人を含む2万2千人が戦死した。1万1千人の遺骨は収容されないままだ。
子供のころ、小笠原諸島・母島の警備隊兵士だった祖父の軍隊手帳を見た記者は、硫黄島に関心を持ち続けた。政府の遺骨収集派遣団にボランティアとして参加し、取材が極めて難しい島に2週間滞在する機会を得た。
戦後は米軍や自衛隊の拠点となり、民間人の上陸は原則許されていない。戦時中、疎開を強いられた元島民も帰還できていない。いまだ、数多くの遺骨が眠る硫黄島。戦争は終わっていない。







- 硫黄島取材・記事執筆
- 酒井聡平(東京報道センター)
- 記事デスク
- 上村衛(東京報道センター部次長)
- 映像取材・編集デスク
- 畠中直樹(デジタル編集委員)、奥天卓也(編集本部)、福家麻乃美(道新デジタルメディア)、畠山靖子(同)
- グラフィック
- 斉藤奈津子(編集本部)
- 制 作
- 田中徹(デジタル編集委員)、佐々木文人(同)、津田祐慈(編集本部)、黄金健二(道新デジタルメディア)、森本雄太(同)


大須賀応(おおすか・ことお)少将は、北海道の旧篠路村(現札幌市)出身です。旧制札幌中学から陸軍士官学校、陸軍大学校に進みました。砲兵の指揮官の道を歩み、1944年3月、硫黄島を含む小笠原方面の防衛トップである父島要塞(ようさい)司令官に着任しました。同年6月、栗林忠道中将が硫黄島に着任すると指揮下に入り、主力部隊である混成第2旅団の初代旅団長の任に就きました。同年12月に歩兵の指揮官と交代した後も本土に帰還せず、45年3月、兵士と共に玉砕したとされています。
今回、取材に応じてくれた遺族の許可を得て、大須賀少将が戦地から送った手紙を掲載します。文面の一部を現在の言葉に変えたほか、省略した部分もあります。
44年春、父島から

東京は暖かいよい気候となったことと思います。三月には、一番で五年生になったそうで、おめでとう。今後とも元気で勉強しなさい。小笠原島も相変わらず暑くもならず、よい気候です。島の付近は鯨がたくさんとれ、皆、鯨の肉を食べています。島に来たころ、ここの島では牛肉をえらいたくさん食べさせると思っていましたが、皆、鯨の肉でした。鯨も牛肉と間違うほど、なかなかおいしく食べられます。
二、三日前、海の上を航行しているとき、小さな弾でも海中に落ちたような水が上るので、射撃でもしているのか、あるいは敵の潜水艦が魚雷でも発射したのかと思いましたが、黒い胴体を見せました。鯨でした。
先日も鯨が浮きあがって潮を吹くのを見て潜水艦と間違えて大慌てをしたという話を聞きましたが、初めて鯨が泳いでいるのを見ました。
島には「カヌー」という小舟があり、漁をやっています。南洋から来たものでしょうが、ひっくりかえらない様な浮きがあり、大へん軽く、安全で、子供でも楽にあやつっています。
先日、小笠原群島の硫黄島という所へ行ってきました。島にはいたるところ、硫黄の水蒸気を噴出し、岩や砂が熱い所があり、井戸の水をくめば、風呂の様にすぐ入れるような所もあり、硫黄の臭気がして温泉にでも行ったような気持ちがしました。湯気を鉄管でとって飯をたいたり、おかずを煮たりしています。海岸では海水が熱く温泉の様な所もあり、兵隊は入浴しています。
小笠原群島は戦時でなければ、景色は良く、魚がとれて、なかなか良い所です。
いまだ敵は一度も近くにやって来ませんが、油断はできません。
熊野神社で写した写真がつきました。大へん元気そうですね。
ではご機嫌よう。父
直様
小兄さんによろしく元気で勉強しなさいと伝えて下さい。
44年6月3日、父島から

暑さがだんだん加わってきたことでしょう。相変わらず元気で何よりです。
こちらは五月になってから雨が多く、皆、喜んでいます。なぜなら、島のものは皆、雨水をためて、それを使っていますので、雨が降らなければ飲む水がなくなってしまうからです。
暑さはまだたいしたことありません。台湾よりは島が小さいのと少し北にあるので涼しいのでしょう。
まだ敵の飛行機は島にやってきません。お父さんががんばっているので恐ろしいのでしょう、アハ…。
東京にもなかなか、空襲に行けないでしょう。
では元気で。さようなら
六月三日 父
直さん
44年夏、硫黄島から
直さん
甲府へ疎開していると思っていたが、残留したとのこと。しかし、小兄さんも陸士に入校して寂しいことでしょう。でも、森さんがお家に来られてよかったですね。
勝栗ありがとう。こちらには栗はありません。バナナ、マンゴウ、パイナップルなどありますが、兵隊が多いので、なかなか口に入りません。このごろは敵機の定期便もせわしいため、欠航が多くなりました。陣地も一日一日、強くなっていきますから、もう敵が来ても心配いりません。もちろん、油断できませんが。
敵が来たら、ひどい目にあわしてやるつもりです。
まだ、こちらは夏の暑さです。すすきなどもありませんので、秋の気持ちはしません。実によく晴れてお月様がとても奇麗です。ではお元気で。
応
直さん
硫黄島から、45年2月4日(最後の手紙)

東京は寒いでしょう。今日は節分。いよいよ立春ですが、まだまだ月いっぱいは寒いことでしょう。皆さま、元気ですか。
お正月にはお兄さん、小兄さん、皆、集まって、さぞにぎやかで、どんなにうれしいことでしたでしょう。小兄さんは三日の外泊、久しぶりの家へ泊まって喜んだでしょう。
お正月には皆、おそろいで写真を写したとのこと。早く見たいものですね。
東京の空襲はどうですか。緑ケ丘付近は安全ですか。なかなか大へんですね。こちらも毎日毎晩、時同じくやって来ます。今は皆、夜は壕の中に寝ています。壕はだんだん深くなって、いくら爆弾を落としても平気です。
ではお元気で。お母様、お祖母様によろしく申し上げて下さい。
拍車ないそうですが、革(赤革)だけでも買っといて下さいとお母様に言ってください。
ではさようなら
二月四日 父
直さん
