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<デジタル発>ヒロシマ・ナガサキ、忘れてないか ヒバクシャが見る「NPT」 前北海道被爆者協会会長の真田さん 「被爆国だからこそ、核廃絶を語って」

 「人類はヒロシマとナガサキの恐ろしい炎から得た教訓を忘れつつある」。1日に米ニューヨークで開幕した核拡散防止条約(NPT)再検討会議の冒頭、国連のグテレス事務総長は危機感をあらわにした。77年前の8月6日、ヒロシマの爆心から約1・5キロ地点で被爆した、前北海道被爆者協会会長の真田保さん(84)=千葉県在住=も、同じ思いだ。道内在住の被爆者として、初めて参加した2015年の前回再検討会議から7年。核軍縮が進まないどころか、ロシアのウクライナ侵攻などを機に国際社会で「核抑止力」が強く叫ばれる現実は、真田さんたち被爆者の目にどのように映っているのだろう。(東京報道 松下文音)

「NPTで合意文書を出してほしい」と期待を語る真田さん=7月28日、千葉県柏市
「NPTで合意文書を出してほしい」と期待を語る真田さん=7月28日、千葉県柏市


 「少しは前向きな姿勢を見せてくれたかな」

 1日朝、真田さんは日本の首相として初めてNPT再検討会議に出席した岸田文雄首相の演説内容を伝えるニュースや新聞記事に目を通した。世界のリーダーや若い世代を広島や長崎に招き、被爆被害の実態を知ってもらうとの発言は「被爆者がずっと訴えてきたことだ」とうれしかった。ただ「核兵器禁止条約」の言葉はどこにも見当たらない。「首相は核保有国に配慮して、言いたいことを言えていないのではないだろうか。物足りないなあ」。ため息をついた。

 2015年の前回再検討会議で、真田さんは「日本原水爆被害者団体協議会(被団協)」の一員としてニューヨークに赴き、現地の子どもたちに自らの被爆体験を語った。「ノーモア・ヒロシマ ノーモア・ナガサキ」。この言葉だけは通訳を使わず伝えたかった。

 現地の高校で体験を話した時、高校生からは「日本も真珠湾攻撃をしたじゃないか」「戦争は勝たないといけないんだから」と原爆投下を肯定的に捉える意見が相次いだ。真田さんは被爆直後の広島の町や人々を写したパネルを見せながら、「原爆の恐ろしさを知っているかい」「あまりにもむごく、絶対に使われていいものではないだろう」と懸命に伝えた。だが肝心の再検討会議は、核保有国と非保有国の対立で決裂し、最終文書に合意できないまま閉幕した。「本当に悔しかった」。あの気持ちは今でも忘れられない。

広島を初めて訪問し、「核兵器なき世界」への決意を述べるオバマ米大統領=16年5月(代表撮影)
広島を初めて訪問し、「核兵器なき世界」への決意を述べるオバマ米大統領=16年5月(代表撮影)


 ただその後の7年間、核廃絶への流れは少しずつ進んでいるように見えた。16年には、当時のオバマ米大統領が現職として初めて広島を訪問した。17年には非保有国の働きかけで、核兵器の開発、保有、使用、威嚇などを全面禁止した「核兵器禁止条約」が国連で採択され、21年1月に発効した。22年6月時点で66カ国・地域が批准している。

 発効当時、北海道被爆者協会の会長だった真田さんは、多くの被爆者や仲間と喜びを分かち合った。「多くの被爆者が長い時間をかけて核廃絶を訴えてきた。高齢で亡くなり、条約発効を見届けることができなかった人もいる。生きている間に見せたかった」と涙もこみ上げた。

核兵器禁止条約を採択した国連会議=17年7月、米ニューヨークの国連本部(共同)
核兵器禁止条約を採択した国連会議=17年7月、米ニューヨークの国連本部(共同)


 だが今年2月、ロシアによるウクライナ侵攻が始まった。ロシア側は核兵器の使用をちらつかせ、国際社会に脅しをかけた。「こんなことが起こるなんて」。ロシアの核の脅しは、国際社会の危機感と緊張感を一気に高めた。日本国内ですら、米国の核兵器を日本に配備する「核共有」の議論が飛び出した。今こそ「核兵器が抑止力になるという発想自体が危険だということに、みんなが気付いてほしい」。居ても立ってもいられない気持ちになった。

 テレビで流れる爆撃を受けたウクライナの市街地の様子は、真田さんに「あの日」を思い出させた。

ロシア軍のミサイル攻撃を受けて破壊された住宅のがれき=22年7月、ウクライナ東部ハリコフ州(ロイター=共同)
ロシア軍のミサイル攻撃を受けて破壊された住宅のがれき=22年7月、ウクライナ東部ハリコフ州(ロイター=共同)


 77年前の1945年8月6日朝。当時7歳の真田さんは広島市中心部の「天満(てんま)町」にあった自宅近くで、3歳年下の弟と、当時5歳くらいのいとこと3人で遊んでいた。7歳上だった一番上の姉は朝から勤労動員へ出掛け、3歳上の次姉は疎開先にいて不在だった。そして午前8時15分。ピカッ、ドーン、すさまじい閃光(せんこう)と、轟音(ごうおん)が響いた。真田さんと弟はちょうど自宅裏にいたため負傷を免れたが、一緒に遊んでいたはずのいとこは、いつの間にか姿が消えていた。爆風で飛ばされたとみられ、数日後に全身やけどで亡くなったと聞いた。

 捜しに来てくれた母と、弟の3人で手をつなぎ、避難場所へ。美容師だった母は、割れた鏡や窓ガラスが胸に刺さり、血まみれだった。真田さんは途中、橋を渡った際に見た光景が今も目に焼き付いている。原爆の熱線でひどいやけどを負った人たちが、水を求めて川に入ろうとし、川には無数の遺体が浮かんでいた。「水をくれ」。悲痛な言葉を数え切れないほど聞いた。

 2、3日後に川辺を通り掛かった時、兵士が荼毘(だび)に付すためか、川に浮いた遺体を木材を使って集める様子が目に飛び込んできた。「ひどかったね…。むごかった。人間扱いではなかった」。道路は、やけどで老若男女すら分からない遺体がたくさん散らばっていた。「今のウクライナの映像を見ると、この広島の原爆投下直後の惨状を思い出してつらい」

原爆投下後の広島の市街地=1945年9月
原爆投下後の広島の市街地=1945年9月


 勤労動員へ出ていた姉は、そのまま帰らなかった。母親はその後も、原爆について多くを語らなかったが、時折、姉への後悔を口にした。「父親は原爆の2年くらい前に亡くなっていたから、姉はよく家の手伝いをしていた。母親は姉に『何もしてやれなかった。ふびんだ』と繰り返していた」

 その後、母の親戚を頼って北海道へ。現在の富良野市で酪農の手伝いをしながら2年ほどを過ごした。苦しい生活を見かねた叔母の勧めで、真田さんが小学3年の時に室蘭へ引っ越した。

 忘れられない出来事がある。

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