PR
PR

<デジタル発>被ばく体験、どう伝えていけばいいのか ヒロシマで被ばく、語り部大村一夫さんの模索

 77回目の「原爆の日」が間もなく巡ってきます。ロシアによるウクライナ侵攻で核の脅威が高まり、これまで以上に核兵器や戦争への向き合い方が問われる夏です。ヒントをもらいに、広島の爆心地から1・6キロの自宅で被ばくした大村一夫さん(81)=札幌市中央区=を訪ねました。5年前から北海道内の学校を回り、語り部を続ける大村さん。でもそこには、戦争と原爆について、若い世代にどう伝えていけばいいのかという模索と葛藤がありました。(東京報道 松下文音)

被ばく後の自宅の様子を描いた絵を手に、当時の様子を語る大村一夫さん=札幌市中央区の自宅(中村祐子撮影)
被ばく後の自宅の様子を描いた絵を手に、当時の様子を語る大村一夫さん=札幌市中央区の自宅(中村祐子撮影)


 ――北海道内の学校で被ばく体験を語り始めたのは2017年からです。きっかけは何だったのですか。

 「それまでは公に自分の体験を語ることはありませんでした。きっかけは14年、長崎市を修学旅行で訪れた中学生が被ばく者で語り部の男性に『死に損ないのくそじじい』と暴言を吐いた、というニュースを目にしたことです。私は傷つきはしなかった。むしろ、若い世代への戦争や原爆の伝え方を考え直さなければならないと考えました」

大村さんが被ばく後の自宅周辺の様子を描いた絵
大村さんが被ばく後の自宅周辺の様子を描いた絵


 ――なぜでしょうか。

 「戦争体験者を第1世代、親や親戚から直接体験を聞いた世代を第2世代とするなら、今の若い世代は戦争を見聞きしていない第3世代です。当時の惨状を映した写真を見せたり、悲惨さを語るだけではもう伝わらない。共感してもらえないと思うのです。でも、戦争は若い世代にとって人ごとではない。これまで77年間平和だったけれど、これから日本が戦争に巻き込まれないとは限らない。例えば、核兵器は小型化された戦術核が登場して“使いやすく”なっている。若い世代が戦争を自分たちの問題として捉え、なぜ戦争が起きたのか、核兵器とはどんなものなのかを学んでほしい。そのために体験を語ろうと決めました」

原爆投下から数カ月後に5歳の誕生日を迎えた大村さん(大村さん提供)
原爆投下から数カ月後に5歳の誕生日を迎えた大村さん(大村さん提供)


 ――爆心地近くで凄絶(せいぜつ)な体験をされました。

 「当時4歳8カ月の私は8月6日の朝、自宅前の道路で、姉と3人の女の子と遊んでいた。午前8時10分ごろ、叔母から朝ご飯に呼ばれたんです。女の子たちに『まだ遊んでいるから、早く食べて戻っておいで』と言われ、自宅に入った。それが生死の境目になりました。食卓を囲むと、飛行機の音が聞こえ、閃光(せんこう)と爆風で、気がついたら地面にいました。土壁から砂ぼこりが舞い、外へはい出すと、町は倒壊して消えていた。顔や身体中にやけどを負い、血が吹き出した人が中心部から逃げようと走ってきて、私たちも避難所を求めて逃げました。一緒に遊んでいた女の子は明け方まで泣き叫び、事切れたそうです。今も『戻っておいで』という声が耳に残っています」

大村さんが撮影した上空からの広島平和記念公園周辺(大村さん提供)
大村さんが撮影した上空からの広島平和記念公園周辺(大村さん提供)


 「数日後、出張先の岡山県から戻った父と合流し、自宅に行きました。コンクリート製の流し台だけが残り、食器や陶器は熱で溶けて固まりになっていた。他は原形も分からなかった。町は焼け野原で、木製の電柱がろうそくのように毎日少しずつ燃えながら短くなり、やがて消えていきました。市電が街じゅうに5~10両ほど止まっていて、中をのぞくと、真っ黒になった乗客の焼死体が固まりになって重なっていました。交差点では道ばたで力尽きた人たちの遺体が集められて焼かれ、強烈な臭いでした。9月に父の仕事関連で入った寮では、けがもなく避難してきたおばさんたちの髪が次々に抜けて丸刈りになり、あっという間に亡くなりました。今思うと急性白血病でしょう」

原爆投下直後、多くの人が避難する際に渡った工兵橋と当時を伝える看板(大村さん提供)
原爆投下直後、多くの人が避難する際に渡った工兵橋と当時を伝える看板(大村さん提供)


 ――大村さんは被ばく体験だけでなく、その後の学校生活や就職後も続いた「死への不安」を子どもたちに伝えています。

 「それこそ、核兵器の怖さだからです。1948年に小学2年で札幌へ引っ越した後、原因不明の熱に悩まされ、1年半ほど休学しました。小学校を卒業した1954年、米国がビキニ環礁で行った水爆実験に日本の漁船が巻き込まれて乗組員が被ばく、死亡した『第五福竜丸事件』が起き、放射能の影響や後遺症が広く社会に知られるようになった。私は一気に死への不安に襲われました。それまで友人に被ばく体験を話していたので、皆にも心配された。それが嫌で中学校の時に無理やり転校し、被ばく体験を封印しました。死におびえ、『自分には時間がない』という言葉が頭から離れず、将来に対して希望も持てずにやけっぱちになりました」


 「一方、葛藤の中で『生きたい。小さくてもいいから生きた証しがほしい』という気持ちが芽生えました。札幌南高3年の時、大検(現在の高等学校卒業程度認定試験)を受検して合格。早く社会に出て仕事をしたいと思い、高校を中退しました。高卒資格がないという理由で何社も断られましたが、設立後間もない自動車販売会社に就職できました」

 ――常に「死の不安」と隣り合わせだったのですね。

残り:1945文字 全文:3875文字
続きはログインするとお読みいただけます。

【関連記事】
⇒<デジタル発>記事一覧
⇒<戦後77年>記事一覧

北海道のニュースがメールで届く
PR
ページの先頭へ戻る