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<社説>沖縄復帰50年 「基地なき平和」が基本だ

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 沖縄が日本に復帰してからきょうで50年を迎えた。

 本土は1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し独立を回復したが、沖縄などは切り離されて米国の統治になった。

 「基地のない平和な沖縄」を願って復帰を望んだが、基地の重圧は復帰後、むしろ強まった。

 米軍専用施設は全国の7割が集中し、復帰前より割合は増えた。基地関連の事件・事故は暮らしを脅かし続けている。

 本土の高度経済成長から取り残されたため、産業振興やインフラ整備は立ち遅れた。今も1人当たりの県民所得は全国最低で、経済格差は深刻だ。

 この50年、沖縄は県民の期待とは裏腹の苦難の道を歩み続けたと言わざるを得ない。

 日本政府の責任は大きい。沖縄の過重な基地負担を解消できずにいるばかりか、安全保障政策などで対米追従を続け、そのしわ寄せをさらに沖縄に課してきた。

 沖縄の人々が平和のうちに生きる権利を侵害し続けることは許されない。

 国民全体の課題として沖縄の痛みに真剣に向き合っていかなければならない。

■「本土並み」はどこへ

 太平洋戦争末期、沖縄は激しい地上戦で県民の4人に1人が犠牲になった。占領した米軍は「銃剣とブルドーザー」で土地を強制的に接収し、基地を建設した。

 道内を含む本土では独立後、米軍基地への反発が強まり、沖縄への部隊移転が進んだ。基地を沖縄に押しつけた面は否めない。

 在沖米軍の事件・事故が相次ぐ中で基地反対と復帰運動が強まり、日米両政府は核兵器撤去と日米安全保障条約を適用する「核抜き・本土並み」で合意した。

 72年5月に復帰が実現したが、日本政府は米軍に基地の自由使用権を認める協定を受け入れた。「基地のない島」への願いは裏切られ、沖縄では「基地付き復帰」に反対の声が広がった。

 沖縄の人が感じてきた「本土からの差別」の根がそこにあろう。そのことに思いを致す必要がある。

■辺野古では解決せぬ

 95年に米兵の少女暴行事件で基地撤去の要求が高まり、日米特別行動委員会(SACO)は翌年、一部の米軍施設返還で合意した。

 最大の焦点は「世界一危険」とされる米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移転だった。当時の橋本龍太郎首相は米側と「5年ないし7年以内」の全面返還を発表した。

 その後、移設先を名護市辺野古に決めたが、県民の理解が得られないまま四半世紀たつ。輸送機オスプレイが配備されるなど、普天間の機能は逆に強化された。

 2019年には県民投票が実施され、移設反対が7割を超えた。しかし、政府は一顧だにせず「辺野古移設が唯一の解決策」と繰り返している。

 政府が民意を無視してかたくなな姿勢を続ければ、沖縄の人々の心は離れていくばかりだ。

 移設予定海域では「マヨネーズ並み」に軟らかい地盤が見つかった。県は工事中止を求めるが国は一方的に続行しており、再び法廷闘争に進む可能性が高い。

 工期も費用も膨れ上がり、完了は見通せない。中止が筋である。

 基地問題の根本には日米地位協定がある。米軍の特権的地位を認め、事件・事故で日本の捜査権や裁判権の大きな壁となっている。

 新型コロナの感染拡大では、米軍関係者に日本の検疫や対策が及ばないことも明らかになった。

 だが政府は改定を要請することさえしない。対米追従が過ぎる。抜本改定を求めるべきだ。

■見えぬ寄り添う姿勢

 沖縄県の玉城デニー知事は復帰50年に当たり、辺野古の断念や地位協定の抜本見直しを求める建議書を岸田文雄首相に手渡した。

 復帰前年の71年、琉球政府の屋良朝苗(やらちょうびょう)行政主席がまとめた建議書を踏まえ、「平和で豊かな沖縄」を再び求めた。

 しかし首相の反応は鈍い。国会では「沖縄の心に寄り添う」と繰り返している。だが、実際は政府の言い分を一方的に押しつけているだけではないか。

 沖縄問題に力を尽くす国会議員が減り関係が薄くなったことも、双方が溝を深める一因だろう。

 9月には知事選が行われる。国の沖縄振興予算は基地反対の県政に対しては減額され、本年度は10年ぶりに3千億円を下回った。

 市町村も、基地受け入れに協力するかどうかで振興策や米軍再編交付金が配分されている。

 露骨な「アメとムチ」だ。

 住民には基地反対を唱え続けることへの無力感やあきらめが広がっているとも言われる。

 政府は地元の声に耳を澄ませ、沖縄の尊厳を踏みにじる不条理を終わらせねばならない。

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