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青苗遺跡から出土 勾玉の「謎」解明へ 奥尻町教委、1年かけ

 【奥尻】町教委は本年度、青苗遺跡から出土した大きな勾玉(まがたま)の「謎」の解明に乗り出す。この勾玉は、昔の有力者の副葬品とみられ、3~4世紀ごろに新潟県糸魚川産のヒスイで作られたということが分かっているが、古墳時代の勾玉がなぜ奥尻にあるのかが判然としない。そこで、考古学の専門家4人に再調査と鑑定を依頼し、1年がかりで勾玉の由来について町の公式見解をまとめる考えだ。

 この勾玉は1976年、道路拡幅に伴う発掘調査で見つかった墓から、鉄剣やガラス玉などと共に出土した。長さ5センチ、重さ50グラム超のヒスイ製で、3本の切り込みが入っているのが特徴。考古学者から「国内でも五指に入るという優品」と評価されている。古墳時代に権力の象徴として用いられたと考えられる。

 これまで町教委が専門家に依頼した分析などから、産地や作られた年代は判明している。しかし、どのような背景で古墳時代の勾玉が奥尻にもたらされたものか、誰の墓の副葬品だったのか、などはいぜん謎に包まれたままだ。

 町教委の稲垣森太学芸員は「いくつかの仮説が考えられる」と話す。まずは7世紀半ばの武将、阿倍比羅夫と共に大和朝廷の命を受けて北方遠征した豪族の墓、との説。日本書紀には当時、渡島半島の近くの島で大規模な戦いがあったとの記述があり、阿倍に同行した能登地方の豪族が戦死したとある。この島が奥尻島で、戦死した豪族が丁寧に葬られたとの考えだ。だが、同時に出土した副葬品の水晶玉が8世紀のものと分かっており、この説には矛盾がある。

 また、8世紀ごろに現在の中国東北部やロシア沿海地方などを治めた国「渤海(ぼっかい)」の日本使節団の水先案内人として奥尻の船乗りが貢献し、謝礼として京都で受け取った勾玉を奥尻に持ち帰った、との説もある。

 稲垣学芸員は「さまざまなロマンが広がるこの勾玉は、道内屈指のオーパーツ(発見された場所や時代にそぐわない出土品)のような存在。専門家の知見で謎が解明されることで、勾玉の資料的価値を高めたい」と話している。

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