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<デジタル発>札幌の五輪立候補、実は5度目 日本はオリンピックが好きなの? デーブ・スペクターさん「もう転換期では」

 1972年に冬季五輪を開催した札幌市が、2030年の冬季五輪招致を目指しています。招致が実現すれば2度目の開催となりますが、実は札幌市が立候補するのは今回が5回目。日本全体でみると、夏季7回、冬季は今回が6回目で、立候補は合わせて13回目になります。日本人は五輪が好きなのでしょうか。札幌市は招致を実現させることで「日本を世界における冬の観光大国に押し上げる」とうたいます。でも、五輪についてユーモアを交えてツイッターで発信している放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんは首をかしげます。「世界の注目を、過剰に意識しすぎじゃない?」(報道センター 大矢太作)

大通公園10丁目に設置されている五輪のシンボルモニュメント
大通公園10丁目に設置されている五輪のシンボルモニュメント


デーブ・スペクターさん(本人提供)
デーブ・スペクターさん(本人提供)


 まず、札幌の五輪招致の歴史から、ひもといてみましょう。

■はじまりは1940年

 札幌が最初に招致に名乗りを上げたのは、皆さんがよく知る1972年の冬季五輪ではありません。それからさらに30年以上さかのぼる1940年(昭和15年)大会でした。


 当時の新聞がそのころの札幌の雰囲気を伝えています。

 「オリンピツク冬季大會札幌に決定 全道興奮と歓喜の坩堝(るつぼ)」。こんな見出しが躍るのは北海道新聞の前身、北海タイムスの1937年(昭和12年)6月11日付の夕刊です。

1937年6月11日の北海タイムスの紙面
1937年6月11日の北海タイムスの紙面


 当時は夏季大会開催国に同じ年の冬季大会の優先開催権がありました。1936年(昭和11年)に夏季大会が東京に決まり、冬季大会に札幌や日光(栃木)、菅平(長野)などが名乗りを上げました。この中から立候補都市になった札幌が、国際オリンピック委員会(IOC)総会で開催地に選ばれました。

 1937年6月20日付の朝刊には「大地も揺らぐ大行進 歓喜の歌よ旗は鳴る」の見出しで、札幌冬季五輪決定に沸く市民らの様子が写真付きで紹介されています。

1937年6月20日付の朝刊
1937年6月20日付の朝刊


 初の冬季五輪開催を手にした札幌市でしたが、1937年に勃発した日中戦争の激化を受け、政府は開催権を返上しました。結局、1940年大会は第2次世界大戦のために夏季、冬季ともに中止。五輪は1948年に再開されたものの、敗戦国の日本はIOCから参加を拒否されました。

 日本オリンピック委員会(JOC)がIOCに戻れたのは1951年で、国際社会への復帰とともに、五輪の自国開催が「日本の悲願」になっていきました。それが、1964年の東京五輪開催、そして札幌の招致活動へと続いていきます。

■1968年にも

 札幌の冬季五輪招致の機運が再び高まり始めたのは、東京五輪の開催が決まった1959年ごろでした。札幌は1968年の冬季五輪開催へ向け、1963年に招致委を設立してIOC委員らに積極的にアピールしましたが、1964年にインスブルック(オーストリア)で開かれたIOC総会で惨敗しました。

1968年の冬季五輪招致に敗れた連絡を受ける招致委事務局
1968年の冬季五輪招致に敗れた連絡を受ける招致委事務局


 このころの日本は、高度経済成長のまっただ中です。デーブさんは1964年の東京大会には「敗戦を乗り越えた姿を世界に示す点で立派な大義があった」と言います。だからでしょうか。当時、五輪誘致に対する反対の声を大きく報じる記事は見当たりません。むしろ大成功を収めた1964年東京大会の「熱狂」に乗って、札幌でも3度目の招致熱が高まっていきます。

■1972年の成功

 そして1966年4月26日。ローマで開かれたIOC総会で、札幌市民、道民が待ちこがれた1972年冬季五輪の札幌開催が決まりました。現場にいた招致委日本代表団らには歓喜の輪が広がり、札幌市役所の留守部隊にも国際電話を通じて吉報が飛び込みました。市役所内では関係者の「万歳」が続き、「三度目の正直」に、だれかれとなく抱き合い、中には涙する人もいたそうです。

 4月27日の北海道新聞の社会面には、関係者が万歳三唱で喜ぶ写真も掲載されています。

1966年4月27日の北海道新聞の社会面
1966年4月27日の北海道新聞の社会面


 当時の招致ライバル都市はソルトレークシティー(米国)、バンフ(カナダ)、ラハティ(フィンランド)でしたが、IOCは1964年東京大会の成功を受けて、日本の組織的な運営能力を高く評価。さらに、当時のブランデージIOC会長は「札幌が1940年大会を返上した歴史も加味された」と語りました。

1972年の札幌冬季五輪時の雪まつり会場。街中に五輪のシンボルマークがあふれていた
1972年の札幌冬季五輪時の雪まつり会場。街中に五輪のシンボルマークがあふれていた


 五輪の開催決定を受け、冬季スポーツ施設や道路、地下鉄などのインフラ機能が国を挙げて整備され、札幌は人口も急増、大きく発展していきます。大会はスキー・ジャンプで「日の丸飛行隊」が金銀銅のメダルを独占。五輪は札幌市にとって大きな「成功体験」となりました。

■1984年大会

 札幌に再び聖火を―。4度目の立候補となる1984年大会に名乗りを上げたのは、1972年の札幌冬季五輪開催からわずか5年後の1977年でした。立候補の理由は国際親善のほか、都市基盤整備の充実などでした。

 ただ、このころから、五輪招致の風景が大きく変わり始めます。

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