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あたたかき日光 第一章「一千万円懸賞小説」 1

 風が、ツルアジサイの白い装飾花を揺らしている。天を目指すように木の幹に巻きつくツルアジサイ。真っ白なその萼片(がくへん)に、水無月(みなづき)の陽光が降りそそいでいる。

 一九六四年六月。初夏の雑貨店では、アイスクリームや菓子パンがよく売れた。
「おばちゃん、アイス三つ」
「はーい、ありがとう。今日は暑かったわね」

 青田が続く旭川市郊外の豊岡。まばらな家並みにバス停がぽつんとあり、その近くの三浦商店に、くるくるとよく働く四十代らしき「おばちゃん」の笑顔があった。近くの木工団地で働く若者らが、タバコや菓子を求めてぽつぽつと訪れている。

 十月には東京オリンピックが開催されるというのに、北の地の新聞には、浮き立った記事はさほど掲載されていない。それに、雑貨店のおばちゃんである綾子には、遠くの五輪よりも、もっと気になる記事があった。

 六月十九日。朝日新聞に、一千万円懸賞小説の予選通過作品二十五編が発表された。

 七百三十一編の応募作から選ばれた二十五編の中に、あったのだ。「三浦綾子」「氷点」という文字が。

 前年の正月から大みそかまで、まる一年をかけて書き継いだ『氷点』は、夫の光世がタイトルの提案者である。

 原稿用紙一千枚近い長編。それまでの綾子は、ペンネームでの手記の発表はあったものの、本格的な長編小説は初めてだった。頼りにしたのは、たまたま古書店で買った本の中で見た、丹羽文雄の「新聞小説作法」のみ。そこには、こんなことが書いてあった。

 

「新聞小説は、筋が大切である。物語性が大切である。描写とか心理とか雰囲気というものは、次の問題である」

「新聞小説の書出しは、もっとも大切である」

 

 なるほど、と綾子は心得た。物語性に綾子の思う真実をプラスして、読者の心に訴えかけていけばよいのだ――一気にペンは進んでいった。

 
「三浦さんお電話です、おうちから」

 光世は旭川営林局で働いていた。病気がちだが、真面目で仕事は正確。経理課きっての逸材とも言われている。

 光世には電話が多いということも知られていた。とりわけ、出だしの「ミ」にアクセントを置いた「ミウラをお願いします」という女性の電話を、何人の同僚が取り次いできたことか。今日も、その声が受話器からこぼれていた。
「ミコさん、二十四日に東京のデスクさんが来るんですって! そう、朝日新聞の本社から」

 年下の夫を、綾子は「ミコさん」「ミッコ」などと呼んでいる。はずんだ声で、綾子は報告した。『氷点』という小説を応募した四十二歳女性が、どのような人物であるかを知りたくて、東京の本社学芸部次長と旭川支局長がわざわざ面談に来る、と。

 当選すれば、賞金は一千万円である。光世の俸給は、手取りで二万五千円程度。三浦商店の一日の売り上げは、一万円程度。金額を意識すればするほど、夜も綾子の目は冴(さ)え、一晩じゅう眠れなかったり、数時間で目が覚めたりという日々が続いていた。

 面談も無事に終わった四日後の六月二十八日夜。三浦家の黒電話がかん高く鳴った。
「朝日新聞旭川支局長の小林です」

 綾子の胸が高鳴る。
「先日はわざわざ……あ、もしかして、決まりました?」

 先方、あいまいな返事。
「一位でしょうか」

 たたみかけて訊(たず)ねる綾子だが、小林ははっきり答えない。
「えー、明日は、ずっと三浦商店にいらっしゃいますか?」
「はあ」
「午前中に、私ともう一人、記者とでうかがいます。いえ、本社の者ではなく市内の者です」
「はい。あの……一位ですか?」
「まあ、ご想像におまかせします」

 受話器を置いた綾子に、再び眠れぬ夜が訪れた。

 翌日やって来た支局長と記者は、雑談には応じてくれるのだが、初舞台の漫才師のようにぎこちない掛け合いを見せるだけ。思わず綾子は口に出した。
「ちなみに、今日は何のためにご足労くださったのですか?」
「それは、その……まあ、明日になればわかるでしょう」
と支局長。

 何か言いたげな記者に、支局長が目くばせをする。しばしの沈黙。

 支局長が腕時計に目をやると、ちょうど近くの奥さんがマヨネーズを買いに来て、それを機に取材終了となった。


 本小説は、旭川の三浦綾子記念文学館館長で北海学園大教授(日本近現代文学)の田中綾さんが、綾子さんの夫、光世(みつよ)さんが残した日記をもとに一部フィクションを交えて執筆します。絵は、旭川在住のイラストレーター小川けんいちさん。綾子さんの生誕100年、北海道新聞創刊80周年を記念した同文学館との共同企画で、毎週土曜朝刊に1年間、連載予定です。

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