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<デジタル発>樺太終戦 刻まれた記憶 未来へつなぐ

 樺太(現ロシア・サハリン)からの戦後引き揚げ者らでつくる全国樺太連盟(東京)が、今年3月末で正式に解散した。1948年の設立以来、引き揚げ者の支援や樺太の歴史伝承の活動を続けてきたが、会員の高齢化と減少のため、終止符を打つことに。そんな中、終戦前後の「記憶」を後世に伝えようと、今なお、それを裏付ける当時の「記録」を探し続ける人たちがいる。(文/報道センター・岩崎志帆、監修/樺太史研究家・藤村建雄)

樺太(サハリン)北緯50度の旧国境付近の「樺太・千島戦没者慰霊碑」=2019年8月(岩崎志帆撮影)
樺太(サハリン)北緯50度の旧国境付近の「樺太・千島戦没者慰霊碑」=2019年8月(岩崎志帆撮影)


 1945年(昭和20年)8月。北海道の北に細長く伸びる樺太では、旧ソ連軍を相手に地上戦が繰り広げられ、玉音放送が流れた8月15日の「終戦」以降も「戦火」は続いた。旧ソ連と日本の国境だった北緯50度線から南に約90キロ。西海岸の炭鉱まちでは、兵役に就く前の年齢の少年まで戦闘に駆り出されていたという。「終戦」後も戦火の続いたそのまちで、苛酷な現実を目の当たりにしたという2人の男性の証言に耳を傾けた。

■突然「撃て」と命じられ

 札幌市在住の山本十郎さん=仮名=は、終戦当時18歳。樺太西海岸の恵須取町(えすとるちょう)大平(たいへい)にある「大平炭鉱」に勤めていた。8月初旬、平穏な暮らしが突然崩れる。

75年前の記憶を振り返る山本十郎さん。新型コロナウイルス対策のため、手作りした仕切り越しに話をうかがい、写真は距離を置き、後ろから撮らせてもらった
75年前の記憶を振り返る山本十郎さん。新型コロナウイルス対策のため、手作りした仕切り越しに話をうかがい、写真は距離を置き、後ろから撮らせてもらった



(山本さんの証言)

 白い紙が自宅に届いたんだ。活字だったから驚いた。「いたずらではないだろう」と思って、知り合いを通じて役場に問い合わせたら、やはり「召集」だったんだ。8月4日ごろ、学校の校舎に500人くらい集められて入隊式が行われた。在郷軍人や、徴兵検査で(現役には適さない)「丙種」だった40歳未満の男性、俺より年下の15歳くらいの中学生まで、召集された。

 山本さんのいた部隊は「百三十三部隊」だったという。旧軍資料(※)によると、「豊原地区第八特設警備隊」の「要第三〇一三三中隊」とみられる。太平洋戦争中、通常の徴兵のほかに、在郷軍人らが各地で召集され、防衛に当たる「特設警備隊」や「地区特設警備隊」が組織された。

(※)陸軍一般史料北東樺太部隊原簿「豊原地区第1・第2・第3・第4・第5・第6・第7・第8・第9特設警備隊」

 「三〇一三三中隊」の行動歴によると、「教育召集」を実施し、在郷軍人だけでなく中等学校の上級生や青年学校の生徒も召集したことが記されている。

 兵籍を保管している北海道庁に、山本さんが軍歴を照会したところ、兵籍はなく、引き揚げ時の書類にのみ、「8月4日に入隊し、18日に部隊が解散した」という記録が残っていた。地域福祉課は「終戦間際でおそらく緊急事態的に集められている。兵役期間が短かった上、書類を作成している状況になかった可能性も高い」とみる。

 戦後、外地になった地域では、兵籍や資料が残ってないことが、ままあるという。

 その1人として召集された山本さんも、炊事場作りなどの作業をさせられながらの集団生活が始まった。だが、早くも暗雲が立ちこめる。

(用語説明)
特設警備隊=正規軍を配備していない地区の沿岸警備の組織で、非常時に在郷軍人を召集する
地区特設警備隊=本土決戦を見据えた国民戦闘の中核組織として、1945年(昭和20年)3月に臨時編成が発令された。戦時に防衛召集で在郷軍人で編成し、軍の戦闘に協力する
教育召集=教育のため補充兵を集めること

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