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<根室 トーチカは語る>上 大戦下 人、金不足を反映

 根室市の太平洋側、落石地区の海岸線をしばらく歩き、砂浜から急斜面を上る。草むらから高さ約3メートル、幅約4メートルのコンクリートの壁が顔を出す。

 土の中に築かれた戦時中の防御陣地「トーチカ」の一部だ。下部に小窓のように銃眼が開けられている。

 「見つけた。やっぱりここだった」。昨年11月、日本建築学会北海道支部の研究チームによる調査に参加した釧路高専の西沢岳夫准教授(52)と、同支部歴史意匠専門委員の小野寺一彦さん(63)=帯広市=は喜び合った。

■米軍迎撃狙う

 トーチカは旧日本軍が第2次世界大戦末期の1944年(昭和19年)から45年にかけて造ったコンクリート製の箱型建造物だ。米軍の上陸を想定し内部から米兵を銃撃するのが目的だった。小野寺さんによると、道内では東胆振以東の太平洋側と、根室半島から網走にかけてのオホーツク海側に少なくとも77基が残る。

 根室市内では20年前、市民グループが15基を確認し、うち13基が現存する。44年に旭川から帯広に移った旧陸軍第7師団司令部に近かった十勝管内大樹町の18基に次ぐ多さだ。同支部の研究チームは調査を基に、一つ一つの位置、写真などをまとめ、台帳を作ることを計画している。

 トーチカは結局、実戦で使われず終戦を迎えた。だが朽ちてゆくコンクリートの塊から読み取れることは少なくない。

■お粗末な造り

 西沢准教授は、根室市内のトーチカのお粗末さを指摘する。コンクリートを流し込むための木製の型枠は、完成時に取り除かれるはずだが、一部が壁に残されているという。

 小野寺さんはコンクリートの質の悪さに注目する。セメントの量が少なく、十勝管内のトーチカと比べても劣化が早いという。「第7師団司令部から離れ、セメントなどの材料が手に入りにくかったのではないか」と推測する。

 根室のトーチカ群構築を指揮した旧陸軍第33警備大隊長、大山柏(1889~1969年)は43年末に着任した。大山は日露戦争の満州軍総司令官だった大山巌の息子である。

 大山柏は回顧録でこう嘆く。「石炭ストーブはなく、防寒服もない」「公金まで足りず、私自身の家屋敷を抵当に銀行から金を借りる段取りに追い込まれた」「少し油断すると、とんちんかんの陣地ができあがる」。資材、資金、人材不足の深刻さが浮かび上がる。

 西沢准教授は「トーチカは歴史を後世に伝える生き証人だ」という。トーチカが静かに語る物語に耳を傾けてみたい。(根室支局の武藤里美が担当し、3回連載します)

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