⑦<秘密の島>核兵器の保管、訓練地としての価値

75年前に米軍が上陸した硫黄島南部の海岸を摺鉢山の山頂から望む(酒井聡平撮影)
75年前に米軍が上陸した硫黄島南部の海岸を摺鉢山の山頂から望む(酒井聡平撮影)


 周囲22キロの硫黄島の中心部に広がる緑の斜面に、白い低層の建物が点在する。自衛隊の硫黄島航空基地だ。記者も参加した2019年9月~10月の戦没者遺骨収集事業で、派遣団員はその一角にある2階建ての建物に泊まった。屋内の案内表示は英語が目立ち、コンセントも外国式。訓練で島に滞在する米軍戦闘機のパイロットらが使う宿舎だと、後に知った。

■核兵器を保管

 「(防衛情報を)口外した場合、機密漏えいの罪に問われることがあります」。派遣前に署名を求められた誓約書には、そんな一文があった。島内では建築物の撮影を禁止された。宿舎から食堂まで約200メートルの移動ですら、単独行動は禁止。「秘密の島なのね」と団員の1人は驚いていた。

 島は戦後、1968年の返還まで米国が統治した。この間の一時期、島内では核兵器が保管されていたことが後の機密文書公開で明らかになった。戦時中に疎開を強制された元島民は帰還が許されない。国は火山と不発弾の存在を理由に挙げている。

 「第2次世界大戦中の全島疎開が続く島は世界でほかに聞いたことがない」。硫黄島の歴史に詳しい明治学院大の石原俊教授(45)は島の特異性を指摘する。島では、騒音のため本土で実施困難な訓練などが行われ、自衛隊員と建設作業員ら数百人が滞在していると言われている。

火山活動が活発な硫黄島。噴気が立ち上る風景も見られた(酒井聡平撮影)
火山活動が活発な硫黄島。噴気が立ち上る風景も見られた(酒井聡平撮影)

■訓練地としての価値

 91年には、米軍空母艦載機の離着陸訓練(FCLP)が神奈川県の厚木基地などから暫定移転した。国は今後、FCLPを鹿児島県の馬毛島(まげしま)に移す方針だが、石原教授は「訓練地としての価値の高さが変わらない以上、自衛隊が全島の管理権を手放すことはない」とみる。

 外部に閉ざされた島で、半世紀以上続けられてきた遺骨収集事業。その先行きは見通せない。法的根拠となる戦没者遺骨収集推進法は24年度までを「集中実施期間」と位置づけるが、厚生労働省は「その先は白紙状態」と認める。

 海外はどうか。米国の場合、国防省が巨費を投じ、第1次大戦の戦没者の行方をいまだに探す。他国も戦没者帰還事業は軍が行うのが一般的だが、日本の場合、軍は解体されている。

■戦禍を語り継ぐ

 事業に対する遺族の考え方はさまざまだ。「若い世代にとって、戦没者は遠い先祖の一人でしかない。私たちの代で終わっていいと思う」。炎天下で、ボランティアが土の中の骨片を懸命に探す姿を目にした戦没者の遺児は、つぶやいた。

 一方で、戦没者の孫世代の中には継続を望む人も少なくない。祖父が中国で戦死した会社経営、道林幸次さん(56)=兵庫県=がその一人。中国や北朝鮮など相手国の事情で収集できていない遺骨は政府の推計で23万柱に上る。「祖父の骨は拾えないけど、何もしなかったという後悔はしたくない。だから、参加を決意した」という。

 派遣団に参加したボランティアは時間に余裕がある定年退職者が多かったが、若い学生も2人いた。そのうち静岡県の男子大学生(22)は軍艦や戦闘機などの豆知識をツイッターで発信する「ミリタリーマニア」。遺骨収集に参加したのは、好奇心からだった。

 収集現場には、戦争の現実と兵士の無念を物語る遺留品があった。「平金」という名前が書かれた水筒や、「中濱」と刻まれた印鑑…。男子学生はじっと見つめながら思った。「自分たちも、土を掘る手を決して止めてはならない」と。

 令和の時代を迎え、戦争を体験した人はいずれいなくなる。しかし、散った兵士1万人超が残されたままの悲しき島は、静かに戦禍を語り続ける。

かつて星条旗が翻った擂鉢山の山頂には記念碑があり、訓練で来島した米軍兵士らのものと見られる認識票が多数残されていた(酒井聡平撮影)
かつて星条旗が翻った擂鉢山の山頂には記念碑があり、訓練で来島した米軍兵士らのものと見られる認識票が多数残されていた(酒井聡平撮影)

摺鉢山に星条旗を立てる米軍兵士=1945年2月(AP=共同)
摺鉢山に星条旗を立てる米軍兵士=1945年2月(AP=共同)

ページの先頭へ戻る