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[第1話特別編] 己に負けたら、競技に負ける 兄が語る幸吉の美学


 円谷喜久造(きくぞう)さん(88)が陸上競技に誘った弟幸吉は、1964年東京五輪マラソンで銅メダルに輝いた。自らは7人きょうだいの四男で、幸吉は六男。東京五輪では応援に声を枯らし、その後は、自死に至る弟の苦悩に寄り添った。幸吉と親友だった68年メキシコ五輪マラソン銀の君原健二さん(79)とは、いまも交流が続く。=2月18日取材


――1964年10月の東京五輪マラソンは東京・国立競技場のスタンドで応援していたそうですね。

 「幸吉が第1コーナーに入ってきた、その曲がり角にいたんです。『来た、来た』と周りが言うんだけど、姿は見えなかった。そのうち入ってきました。時計を見たら、自己ベストより3分半速い。それからトラックを1周するんだけど、40キロで既に幸吉は力尽きていたんですね。世界記録保持者だったベイジル・ヒートリー(英国)に抜かれて。幸吉は疲れて、気力で走っていたんです。私は3位よりも後ろの選手を見ていました。4位の選手が来ているか来ていないか。『2位でも3位でも、とにかくゴールしてくれ』と思っていました。幸吉が第3コーナーを回ったとき4位の選手が競技場に入ってきた。これも英国の選手で、優勝候補の一人でした。そういう選手たちの中で、あれだけ走れた。本人からすれば最高の出来だったのでは」

走る円谷幸吉の写真と、兄の喜久造さん=2月18日、福島県​須​賀​川​市​の​メ​モ​リ​ア​ル​ホ​ー​ル​
走る円谷幸吉の写真と、兄の喜久造さん=2月18日、福島県​須​賀​川​市​の​メ​モ​リ​ア​ル​ホ​ー​ル​


 「最後の最後まで練習して、調整して、最高のコンディションで参加すれば、思ったより快調に走れるときがあるんです。幸吉は1分58秒、自分のベストより速く走っている。それだけ走れたのは良かったと私は思います。幸吉のコーチの畠野洋夫さんも『130パーセントだ』と評価していました。東京五輪は幸吉が陸上を本格的に始めて7年目でした。速い選手ではなかったけど1年、1年、積み重ねていきました」

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