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[第1話] 札幌駆けた円谷と君原 五輪前夜、忘れえぬ友情の味


 新型コロナウイルスの猛威は世界最大のスポーツイベントである五輪・パラリンピックを揺さぶり、東京五輪は来年7月23日~8月8日に期間が1年延期された。感染拡大が来夏に収まっているかどうかは予断を許さないが、札幌市で行われる予定のマラソンと競歩では開催を信じるアスリートらが準備を進めている。連載「北海道と五輪・パラリンピック」第3部は、マラソンのランナー、競歩でウオーカーと呼ばれる韋駄天(いだてん)たちが道内に刻んだ足跡をたどる。実現すれば北海道初となる夏の五輪へ寄せる思いを描き、五輪の持つ意味を見つめ直したい。(5回連載します)

日の丸の重圧 自死した英雄


 3月12日は底冷えする晴れた朝だった。福島県須賀川市の、中心部にほど近い十念寺にある円谷幸吉の墓前で、日本陸連マラソン強化戦略プロジェクトリーダーの瀬古利彦が手を合わせた。最終選考会を8日に終えたばかりの東京五輪マラソンの代表たちも一緒だった。

 墓石に刻まれた享年は27歳。1964年10月にあった東京五輪のマラソン銅メダリストで大会の象徴ともなった青年は、68年メキシコ五輪を目指す途上で自死した。勝つことを宿命づけられた重圧に苦しんだからともいわれる。

 「円谷さんは東京五輪で素晴らしい走りをしてくれた。彼の走りがいまの日本のマラソン界を支えている。きっと選手たちを守ってくれる」。瀬古は墓参に寄せた思いを、そう語った。

円谷幸吉の墓に手を合わせる東京五輪女子マラソン代表ら(日本陸連提供)=3月12日、福島県須賀川市
円谷幸吉の墓に手を合わせる東京五輪女子マラソン代表ら(日本陸連提供)=3月12日、福島県須賀川市


 墓に頭を垂れた鈴木亜由子(日本郵政グループ)は、その足で円谷の歩みをたどる市内のメモリアルホールを訪れ、練習ノート、シューズなどの遺品をじっと見つめて言った。「円谷さんの忍耐力を肌で感じ、より覚悟ができました」

 鈴木は2018年8月の北海道マラソン優勝を足がかりにして代表となり、来夏の東京五輪で札幌を駆けようとしている。実は円谷も、いまから56年前の8月に同じ道都を走り、東京五輪へ向かっていた。

実力拮抗 直前の札幌合宿


 円谷は1964年8月23日、札幌・大通公園と小樽市を往復して行われた北海タイムスマラソンに出場した。アジア初の五輪へ向けた仕上げの合宿を札幌で行っており、ともに代表に選ばれていた君原健二(79)、寺沢徹(85)もいた。スタート地点は中央区大通西4。2021年の五輪コースとは大通公園を挟んで向かいの南大通だった。

 「2カ月後に迫った五輪代表です」。当時、場内アナウンスのマイクを握った道陸協顧問の松田顕二(89)=札幌市豊平区=は高ぶる気持ちを抑えながら最前列の3人を紹介している。「気品があって特別でした。札幌で五輪代表が走ることが新鮮で、誇らしかった」。優勝したのは君原で2時間17分12秒。円谷は2時間19分50秒の2位だった。

 君原は、同じ学年の「かけがえのない友人」と過ごしたこの夏をはっきり覚えている。マラソンの4日後、札幌市円山競技場(中央区)であった記録会では、円谷とともに1万メートルの日本記録を更新している。

札幌・円山競技場の記録会で1万メートルの日本新記録をマークした円谷幸吉。後方は君原健二。このレースのあと、2人は祝杯を挙げた=1964年8月27日
札幌・円山競技場の記録会で1万メートルの日本新記録をマークした円谷幸吉。後方は君原健二。このレースのあと、2人は祝杯を挙げた=1964年8月27日


 「(競技場)近くの売店の縁台で喜び合ってビールを飲んだ。大瓶を注ぎあいながら。おいしかった。サッポロビールだったと思います。間違いない。私はビールを1週間に1、2本しか飲んでいなかったのに、その日は4本も飲んだんです」。円谷の兄喜久造(きくぞう)(88)=須賀川市=によると、円谷は「サッポロビールは味が甘くてうまい」と話していた。

ゴール前 振り向いた君原


 円谷は東京五輪の1万メートルで6位。マラソンは国立競技場のフィニッシュ手前で1人に抜かれ、3位だった。振り向かず、後続が迫っていることを知らなかった。レース後、8位だった君原は控室の簡易ベッドで悲しげに横たわる円谷を見ている。

 「国民に申しわけないことをした、次のメキシコ五輪でもう一度メダルを取る、という強い責任感をもっていた」と君原が回想する円谷は、しかし、故障などに苦しみ、五輪のあった68年の1月、命を絶った。

 そのメキシコ五輪で君原は銀メダルを手にする。スタートでは自らにこう言い聞かせたという。「きょうは円谷さんのために走ろう」。最終盤には、東京五輪の円谷と同じように後続に追い上げられた。「スタジアムが見えたとき、気になって後ろをチェックすると選手が迫っていた。抜かれないぞ、と頑張れた。私も普段は振り向かないのですが、円谷さんに助けていただいた気がする」

メキシコ五輪のマラソンで力走する君原健二=1968年10月20日、メキシコ市(時事)
メキシコ五輪のマラソンで力走する君原健二=1968年10月20日、メキシコ市(時事)


 君原は毎秋、須賀川市の円谷幸吉メモリアルマラソンに参加している。訪れるたび、缶ビールを買って墓参する。半分は墓にかけ、残り半分を飲み干す。銘柄はサッポロ。五輪延期で中止されたが、3月28日には聖火リレーのランナーとして再訪する予定だった。

2021札幌 2人が託す夢


 北海道は円谷からメッセージを贈られている。

 「マラソンとは『我慢比べ』みたいなものではないかと私は思います。これは人生の道にもいえることでありましょう。(中略)オリンピックで得た教訓はただひとつ、やる気で信念を貫けば何事も成し遂げられる、ということをみずからの体験で学んだことです」

 東京五輪から2年後の66年、円谷は道青少年育成推進協議会(当時)が編んだ新成人向けの冊子「成人の書」に「オリンピックの教訓」を寄せた。

 帯広市の陸上自衛隊第5師団(現旅団)に勤務していた体育学校時代の上司に頼まれたもので、その存在を知った須賀川市は2019年から、「円谷幸吉からの伝言」として成人式で配っている。円谷の心は北海道から故郷に届けられた。

 五輪マラソンが札幌で開かれようとしている。会場が当初の東京から移ったため北九州市に住む君原は観戦を諦めかけたが、札幌の知人に宿を探してもらった。開催が来夏に延びても訪れるつもりだ。円谷と祝杯を挙げた思い出の地に「やっぱり行ってみたい」。

市民ランナーとして走り続ける君原健二。フルマラソンはこれまで現役時代を含めて74回走り、全て完走している=4月1日、北九州市
市民ランナーとして走り続ける君原健二。フルマラソンはこれまで現役時代を含めて74回走り、全て完走している=4月1日、北九州市


 1964年の東京五輪で円谷は自己記録を2分近く更新した。君原は3分以上遅かった。だから願っている。持てる力を十分に発揮してほしい、と。それは、2021年の五輪で札幌を走りたいと願う後輩たちへ贈る、君原からの成人の書だ。(根本剛、敬称略)

円谷幸吉(つぶらや・こうきち) 1940年5月13日、福島県須賀川市生まれ。須賀川高から陸上自衛隊に入隊し、64年東京五輪で1万メートル6位、マラソンは2時間16分22秒で3位。68年1月、自衛隊体育学校幹部宿舎で自ら命を絶った。

君原健二(きみはら・けんじ) 1941年3月20日、北九州市生まれ。中学2年で陸上を始め、福岡・戸畑中央高(現ひびき高)から八幡製鉄(現日本製鉄)に入社。64年東京五輪マラソン8位。五輪マラソンは68年メキシコで2位、72年ミュンヘンは5位。九州女短大教授、北九州市教育委員などを歴任した。

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