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<多様性の時代に>4 表現の自由考える対話を

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 憲法は国民の基本的人権を幅広く保障している。信教、職業選択、学問などの自由は「侵すことのできない永久の権利」である。

 中でも表現の自由は、個人の人格形成だけでなく、国民が政治的な意思決定に関与する意義もあり「とりわけ重要な権利」(「憲法 第四版」芦部信喜)とされる。

 それが揺らいでいる。昨年の国際芸術祭、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の展示中止に端的に表れた。

 原因は、相いれない表現を排除しようとする多数の抗議だ。その分断に乗じて、政治家が一方に肩入れする形で介入した。

 社会の中で一方が他方の権利を力ずくで奪ったり、政治家が異論を排除して物事を進めるようでは、民主主義は成り立たない。

 国民が主役の社会であるためにも、価値の多様性を認め合い、表現の自由を確保する必要がある。

■地域住民の満足とは

 あいちトリエンナーレ後、あるイベントが注目された。広島県尾道市の離島、百島(ももしま)から現代アートを発信するNPO法人アートベース百島の「百代(ひゃくだい)の過客(かきゃく)」だ。

 憲法と芸術、プロパガンダを巡る表現者や研究者の連続対話を軸に、関連する作品を展示した。

 参加予定の作品と作者が「不自由展」で攻撃されたため、騒ぎが飛び火して、連続対話の最終回は島に街宣車が来る事態となった。

 だが、実際のところ混乱はなかった。警備や警察の巡回もあるが「対話」という場の力だろう。

 語気荒く作者に詰め寄った人が最後に「作品は許せないが、考えは分かった。話せて良かった」と握手を求める場面もあった。

 スタッフは会期中、抗議に耳を傾け積極的に来場を呼びかけた。「相いれないがこういう作家もいるんだな、と認めてもらうことが出発点になる」と手応えを語る。

 一方、行政の立場は微妙だ。

 尾道市は近年、現代アートによる地域振興に取り組んできた。広島県が今年、県東部で初めて開く国際芸術祭の舞台でもある。

 「百代の過客」は、補助を受けていないがそのプレイベントでもあり、市や県は電話やメールによる猛烈な抗議「電凸(でんとつ)」に加え、議会対応にも追われた。

 尾道市は「検閲はできない。一方で、行政としては地域住民の満足度向上につながるものをやるのが仕事だ」と苦衷を隠さない。

 問題は、支持より抗議の方が「大きな声」をもちやすいことだ。

■危うい政治家の発言

 あいちトリエンナーレでは、芸術祭実行委の会長代行でもある河村たかし名古屋市長らが「公金を投じて」「公的施設で」行うことを繰り返し批判した。

 公平公正に税金を使うことは必要だとしても、文化芸術に関しては思想統制を招く恐れがある。

 愛知県の検証委員会が、施設や資金の提供は行政が内容を支持したり裏書きすることにはならない、とくぎを刺したのは当然だ。

 河村氏は、展示が「日本人の心を踏みにじる」と座り込みまで行った。私的な思想を公共性に優先したと見られても仕方ない。

 「不自由展」への抗議が暴力的な力を持ったのは、ネット社会によるところが大きい。拡散力の強い会員制交流サイトで抗議があおられ、電凸が浴びせられた。

 自分の表現の手段が、他人の表現の自由を脅かす道具になり得ることに留意する必要がある。

 深刻なのは、政府がこうした抗議を結果的に是認したことだ。

 菅義偉官房長官は、開幕直後から芸術祭への補助金について「精査する」と言明し、文化庁は手続き上の不備を口実に外部委員を入れずに全額不交付を決定した。

 いったん交付を決めておきながら後から事実上の懲罰を科すような手法は表現活動を萎縮させる。

 同じ頃、独立行政法人日本芸術文化振興会は、出演者に不祥事があった映画への助成金交付を取り消した。「公益性の観点」で取り消せるよう要綱改定を行った。

 「公益性」の意味は不明確だ。恣意(しい)的運用が懸念される。

 こうした不当な圧力に対し、粘り強く撤回を求めねばならない。

■あきらめない覚悟で

 公権力による不当な介入を排除するには、ネットで拡散する「大声」に流されず、地域で表現の自由を考え、共通認識を積み上げる努力が行政や市民に求められる。

 川崎市の「KAWASAKIしんゆり映画祭」は、慰安婦問題を扱った映画の上映をいったん見送ったが、事務局や映画人、ファンが激論を交わし、実行委の背を押して、最終日の上映を実現した。

 道内でもさまざまな発信が行われている。次の冬には3年に1度の札幌国際芸術祭も開かれる。

 積み残された課題と向き合い、社会の豊かさをどう守るか、私たちの知恵と覚悟が問われている。

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