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第五章 “死の一瞬前”

「まあ、それは一般論だな。――あなたは、いい、はっきり言うよ。自分が見捨てられたと思いたくないばかりに、お母さんの意思を否認してるんだな。もちろん、社会風潮の影響も受けてるでしょう。当たり前だな。良い影響も悪い影響も、受けずに生きられる人間なんかいない。その上でだ、よく考えて、お母さんはちゃんと自分で判断してるんです。本心から。――お母さんは、とても冷静でしたよ。」

 そう言うと、富田は、この場を穏やかに収めることを考えながら、もう少し先まで進むべきだという衝動を堪(こら)えきれないような様子で、小さく嘆息して言った。
「あなたたちの生活は苦しかったんだな。お母さんの余命は、八十六歳と計算されてたけど、あんまりアレもあてにならんよ。それでも、あと十五年以上。――『もう十分』ということを理解するのが、そんなに難しい? 下り坂が長ければこそだ。いつまで働けるかわからないし、体も不自由になるばかりでだ。あなたは若いけど、そのくらい、想像がつかないかな?」
「先生はだから、母が本心から、『もう十分』と思っていたと判断したんですか?」
「あなたね、それは違うんだよ。何度も言うけど、お母さんが、本心からそう思ってたかどうかなんていうのは、それはわかりませんよ、私は。ただ、お母さんは、本心から決断したんですよ。それでね、――つまり、あなたに説明する言葉としては、それしかなかったんだな。その『もう十分』という言葉しか。そこをあなたが、わかろうとするかどうかじゃない、問題は?」
「持って回った言い方をせずに、もっとはっきり言ってください。何を言おうとしてるんですか? これは、僕が生きていく上で重要な問題なんです。」

 富田の躊躇(ちゅうちょ)は、僕への配慮ではなく、依然として守秘義務を巡ってのことだった。けれども、どんな人間にも、目の前の人間に対して、何となく残酷であることを夢見る一瞬があるように、彼は、終(しま)いには勢いづいて話し始めた。
「あなたは独身だな、まだ。」
「そうですが。」

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