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<危機、そのとき 経営者は語る>サザエ食品・島田俊平社長 ロス恐れず売れ筋増産

 「十勝おはぎ」など道民になじみの深い和菓子や弁当の製造・販売で知られる「サザエ食品」(札幌)は2015年に業績不振で自力再生を断念し、事業を引き継いだ石屋製菓(同)の下で復活を遂げた。再建の立役者となったのは、石屋製菓から派遣された現社長の島田俊平氏(71)。売り上げを重視し、設備投資も積極的に行うなど「攻めの経営」で、どん底からの立て直しを引っ張った。(聞き手・石井努)

 島田氏は北洋銀行出身で、数々の会社再建を手掛けた「企業再生のプロ」として知られた。07年、賞味期限改ざんが発覚した石屋製菓に移り、社長として経営再建に尽力した。

 「まいったな」。15年にサザエ食品の社長に就任した際、暗たんたる気分になりました。東京の店舗の赤字が業績不振の原因とされていましたが、道内も抜本的な改革に取り組まなければ赤字に陥る恐れがありました。

 石屋製菓の再建を任された時は、業績自体に問題はなく、「内部管理を徹底すれば再生できる」と感じました。サザエ食品の状況は全く異なり、道内71店舗のうち売り上げが前年より増えたのは数店舗だけでした。

■機械化に遅れ

 十勝のあんを使ったおはぎなど商品に競争力があるのに、なぜ売れないのか。就任直後に行った工場や店舗の視察で、機械化の遅れや、食品廃棄(ロス)を極力出さない経営方針が生産効率を悪くしていることに気付きました。

 各店舗はロスを意識するあまり、工場への商品の発注を約10年間も「前年並み」に抑えていました。ロスをなくすのは大事なことですが、前年並みの発注が続けば工場稼働率は上がりません。当たり前ですが、前年以上に売り上げを伸ばすこともできません。

 そこでロス率で店を縛らず、売り上げ増を優先する方針に思い切って転換しました。ロスが増えたら自身の責任だと覚悟を決め、発注量を前年より10~15%増やしたところ、工場の稼働率は約15%上昇し、売り上げも前年比で5%増えました。

 おはぎや弁当用の米飯を炊いて手作りしていた旭川や登別など一部地域の店舗には、札幌の工場で早朝に作った商品を運んで並べることにしました。この地域の店舗におはぎなどが並ぶのは開店から1~2時間後でしたが、開店と同時に販売できるようになった。各地区の売り上げも2年連続で前年比10%以上伸びました。設備投資もけちらず、巻きずしを作る「連続のり巻き機」や「新型いなり製造機」を相次いで導入し、生産効率はそれぞれ4倍、2倍に高まりました。

 島田氏の就任以降、サザエ食品は毎年増収増益を続けている。15年の就任時に約38億円だった売上高は18年に約41億円、19年8月期は約43億円に増える見通しだ。

 危機に陥っても、しっかりしたビジネスモデルや顧客に支持されている商品があれば企業再生はできます。石屋製菓には「白い恋人」が、サザエ食品にも十勝おはぎという強力な商品がありました。

 古巣の北洋銀から「サザエ食品のスポンサーになってほしい」と打診を受けた際、私は石屋製菓の相談役でした。メリットがあるか悩みましたが、石水勲会長が「サザエの名前を残そう。あそこのおはぎはおいしいよね」と言ってくれたことが決め手になりました。

■競争力に自信

 菓子業界はライバルがひしめき、小豆が値上がりするなど環境は厳しい。でも、当社のおはぎや大福には、絶対的な競争力があると信じています。会社がこのまま黒字を維持し、将来的に独り立ちすることが、石屋製菓への恩返しになると思っています。

 しまだ・しゅんぺい 慶応大商学部卒業後、1973年4月に旧北海道拓殖銀行入行。拓銀破綻後の98年に北洋銀行に移り、帯広中央支店長、融資第二部長などを経て2004年に常務取締役。07年に石屋製菓代表取締役社長に就任し、13年から取締役相談役。15年6月から現職。71歳。

<ことば>サザエ食品 1957年、函館で創業。66年に札幌に移転、80年には道内30店、東京に10店出店した。首都圏の業績不振から、2015年5月末に任意整理で会社清算。同年6月に石屋製菓が子会社を設立し、道内の2工場、71店舗、510人(パートを含む)の従業員を引き継いだ。スーパーや百貨店のテナントとして出店するケースが多く、おはぎやおにぎり、巻きずし、弁当、和菓子などを販売する。

 事業撤退、不祥事、破綻…。会社の存亡にかかわる危機の真っただ中で、リーダーは何を考え、どう動いたのか。窮地に至った要因を検証するとともに、復活・再生のヒントを探る。(随時掲載します)

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