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北方領土が分かる!

<木曜ワイド>一から分かる北方領土の歴史(1) 1855~1945年 「固有の領土」か「大戦の結果」か

 第2次大戦末期から70年以上、未解決のまま残されてきた日本と旧ソ連の継承国ロシアとの間の北方領土問題が、大きな転換点を迎えている。安倍晋三首相は2018年11月のプーチン大統領との会談で、歯舞群島と色丹島の日本への引き渡しを明記した1956年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速することで合意。日本の歴代政権が目指してきた四島返還から、2島返還を軸とした交渉へと方針を事実上転換した。そもそも北方領土問題はどのようにして生まれ、長年どのような交渉が行われてきたのか。歴史をひもとき、5回に分けて解説する。

 「択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島から成る北方四島は(中略)いまだかつて一度も外国の領土となったことがない我が国固有の領土です」

■樺太と千島交換

 外務省が発行する冊子「われらの北方領土」の冒頭には、こう書かれている。

 その根拠の一つは、日本とロシアの間で国境線を初めて定めた1855年の日露通好条約だ。ロシアのプチャーチン提督が、日本との国境画定や貿易開始を求めて静岡県下田に来航。択捉島とその北東側のウルップ島(得撫島)の間に国境線を引き、ウルップ島以北に連なる千島列島の島々はロシア領とすることが条約で定められた。

 両国はその20年後の75年に両国の住民が混在していた樺太(サハリン)を日本が放棄する代わりに、ロシアから千島列島を譲り受ける樺太・千島交換条約を結んだ。さらに30年後の1905年、日露戦争終結時のポーツマス条約で、日本は南樺太を譲り受けた。

 両国間で結ばれたこれら三つの条約で、四島はいずれも日本領に含まれる。日本政府が四島を一度も外国領になったことがない「固有の領土」だと強調するのは、こうした歴史的背景がある。

 しかし、ロシア側でこうした歴史は一般的にほとんど知られていない。ロシア政府が、ロシア語名で南クリールと呼ぶ北方領土は「第2次世界大戦の結果、正当にロシアの領土になった」と主張しているからだ。

■中立条約を無視

 その最大の根拠は第2次大戦末期の45年2月、米英ソ首脳がクリミア半島ヤルタで結んだヤルタ協定にある。この協定ではソ連が日本との戦争に参加する見返りとして、ソ連に対して南樺太を返還し、千島列島を引き渡すと約束した。その結果、ソ連は同年8月9日に当時まだ有効だった日ソ中立条約を無視し、日本との戦争に参加。日本がポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏を表明した後もソ連軍が侵攻を続け、四島をすべて占領した。


 プーチン大統領は戦後60年の2005年、「四島はロシアの主権下にある。これは大戦の結果だ」と公の場で初めて語った。13年には、ヤルタ協定を「長い平和の期間が保証された」と高く評価した。ロシアによる四島領有は、大戦に勝利した連合国側の合意事項であり、日本も受け入れるべきだというのがロシアの主張だ。

 一方、日本側は《1》協定は密約で、領土問題の最終的な処理を決定したものではない《2》日本は協定に参加していない―などとして、法的な有効性を認めていない。日本は、四島は日ソ中立条約を守らなかったソ連に「不法占拠」されたもので、返還すべきと主張。外務省幹部は「平和条約を締結していないロシアとの間で、『大戦の結果』は法的に確定していない」と指摘し、ロシアとの溝は深い。

 「歴史的な(主張をぶつけ合う)ピンポンをやめるべきだ」。16年12月に来日したプーチン氏は、安倍首相との会談後の共同記者会見で、こう訴えた。四島が「固有の領土」だとして、返還を求め続ける日本側への不満が背景にある。

 首相も18年11月、プーチン氏との会談で「あなたは歴史的なピンポンをやめようと言った。私もそう思う」と語ったとされる。領土交渉を進めるには、歴史認識を巡る対立を避けた方が得策と判断しているとみられ、会談後、首相や河野太郎外相(当時)は記者会見や国会答弁などの公の場で、「固有の領土」「不法占拠」などの表現を避けるようになった。

 ただ、ロシアのラブロフ外相は19年1月の河野氏との会談後、「大戦の結果の全てを日本が承認することが第一歩だ」と強調。その後もロシア側は、ロシアの四島領有が正当だという歴史認識に基づかなければ交渉進展は困難だとして、日本側に受け入れを迫る姿勢を強めている。

 首相は、従来の領土交渉が「1ミリも進んでこなかった」として、未来志向で進める必要性を訴える。ただ、四島の返還をロシア側に求める根拠となってきた歴史認識で譲歩すれば、日本の立場を弱めることにつながりかねない。

 「固有の領土」か「大戦の結果」か―。歴史認識を巡る隔たりは、平和条約締結交渉の行方を左右する高いハードルとなっている。


■なぜソ連に千島引き渡し 対日参戦の見返り

 Q 日本とロシアの最初の国境線は、なぜ択捉島とウルップ島(得撫島)の間に引かれたの?

 A 日本は17世紀から、当時の松前藩が徐々に北方四島の統治を進めていました。ロシアもカムチャツカ半島から千島列島への進出を図っていましたが、日本外務省は「ウルップ島より南にまで勢力が及んだことは一度もない」と主張しています。

 ロシア側は日露通好条約を巡る交渉に、択捉島以北のウルップ島までを自国領とする方針で臨みました。当時、ロシアは1853年に始まった英仏とのクリミア戦争で疲弊し、アジアへの東方進出を強めていました。毛皮などの輸出先だった中国との貿易が不振だったこともあり、日本との国境画定と通商開始を急いでいたとみられます。

 Q 樺太・千島交換条約は、なぜ行われたの?

 A 日露通好条約では樺太(サハリン)の国境線を定めず、両国民混住の場所としましたが、日ロ間の紛争が相次ぎました。明治政府内には北海道開発に注力するために、より中央から遠い樺太を放棄すべきだとの意見もあり、75年に日本が樺太を譲り、千島列島を獲得することでロシア側と合意しました。

 Q なぜヤルタ協定で、ソ連に千島列島を引き渡すことが約束されたのですか?

 A 当時、まだ原子爆弾の開発に成功していなかったルーズベルト米大統領は日本との戦争で米軍の犠牲を最小限にするため、ソ連に対日参戦を強く求めていました。欧州側でドイツとの戦いに集中していたソ連にとり、日本は直接的な脅威ではなかったため、スターリン共産党書記長は対日参戦に国民の理解を得るため千島列島の引き渡しを要求したと言われています。

 1941年の日ソ中立条約は、両国が互いの領土を侵略しないことを約束しており、ソ連の参戦は違反です。ただロシア側は、参戦は連合国の米英などから要請を受けたものであり、軍国主義日本が起こした戦争を終結させるためだったなどとして正当化しています。大戦の敵国に対して連合国がとった行動を「無効または排除するものではない」と明記した国連憲章第107条(敵国条項)なども理由に、四島は大戦の結果、国際法に基づいて自国領になったというのがロシアの立場です。

 Q 米国はヤルタ協定を巡るロシアの主張を支持しているのですか?

 A 米政府は56年に発表したヤルタ協定についての公式見解(国務省覚書)で「署名した国の首脳が共通の目的を述べたものにすぎず、領土を移転する法律的効果を持つものではない」としています。ブッシュ元大統領は2005年に、同協定が東西冷戦などを生んだとして「史上最大の過ちの一つ」と批判しました。しかし、近年、愛国ムードが高まるロシアでは、連合国の一員として大戦に勝利した証しと言える同協定を評価する声が強まっているのが実情です。(則定隆史)

※2019年1月17日に紙面掲載された記事に一部加筆・修正しています。

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