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<訪問>「明恵(みょうえ)」(上・下)を書いた 高瀬千図(たかせ・ちず)さん

「なにものでもなく生きる」尊さ

 雄大な八ケ岳のふもとに広がる長野県原村。17年前、東京から移り住み、森に家を建てた。自然の中で日々、一人の僧に向き合い続けた。

 その人は源平の争乱から鎌倉幕府の成立、承久(じょうきゅう)の乱に至る時代を生きた明恵上人(しょうにん)(1173~1232年)。2冊で千ページに上る歴史小説を書き上げるまで20年を費やした。

 「どう切り込めば明恵にもっと近づけるのか七転八倒しました。平家や朝廷、鎌倉の源頼朝らの動きを時系列ごとに整理し、全体が俯瞰(ふかん)できるまで長い時間が必要でした」

 明恵は国宝「鳥獣人物戯画」で有名な京都・高山寺を開いた人物。紀州(今の和歌山)で生まれ、8歳で孤児となった。母は病気で、父は源平の戦いで亡くなった。9歳で寺に入り、終生厳しい修行を続けた。釈迦(しゃか)の悟りの世界を示した華厳経の教えを身をもって実践した。

 戦で親子や兄弟が殺し合う。飢餓と疫病がまん延し、「地獄」の様相が際だった時代を明恵は生きた。そういう中で、人の幸福と安寧はいかにして得られるのか、生涯にわたって探しだそうとした。

 明恵を知れば知るほど、著者はみせられていった。生きることに苦闘する人が多い現代社会にも通じる教えであると確信するようになった。

 「彼は富や成功、社会的な名声がいかに人の心をむしばむかに気づき、『なにものでもなく生きる』尊さを説きました。私は無欲に徹して生きるほうが自由だと学びました」

 明恵を理解するために、その生き方を少しでも追体験しようと懸命に試みた。6年間菜食を続け、寺で3年間密教の修行に明け暮れた。山奥の道場に通い、9日間無言のままひたすら瞑想(めいそう)を繰り返した。

 1945年、長崎県生まれ。文学では「月山」で知られる森敦さんに師事し、39歳の時に「イチの朝」で芥川賞候補になり、続いて「夏の淵」で新潮新人賞を受賞した。

 人生の師は水俣病問題で患者に寄り添い続けた医師の故原田正純さんという。著者が90年にブラジルの鉱山で深刻な広がりを見せていた水銀汚染を「朝日ジャーナル」に発表した時、全面的に協力してくれた。

 原田さんは最後まで権力や暴力に屈することがなかった。その原田さんが著者に語った「僕は強い人間なんかじゃないよ。ただ、自分の心が嫌だということはしなかった」という言葉が、その後の人生を支えた。

 のちに明恵も「心が嫌だと思うことはしない」ということを説いていたことを知った。今回の作品につながる不思議な“縁”を感じている。

編集委員 伴野昭人

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