PR
PR

<書評>憂鬱な10か月

イアン・マキューアン著

「ハムレット」翻案 爽快な悲喜劇
評 八木寧子(文芸批評家)

 異様な静けさに包まれる最後の1ページ。そこに至るまでのスリルとサスペンス、錯綜(さくそう)する思惑とで混沌(こんとん)としていた舞台は、まるで夜明けを待つ湖面のように凪(な)いでいる。

 現代イギリスの巨匠マキューアンの最新作は、滑稽で、辛辣(しんらつ)で、爽快な悲喜劇だ。微細で執拗(しつよう)な描写こそ健在だが、リアリズムを追求してきたこれまでの作品群とは異なり、想像の翼が豊かに広げられている。

 若く美しい妻が、夫の弟と共謀して夫の毒殺を計画する。詩を愛する夫は浮世離れした人物で、義弟は強欲な「食わせ者」。紫のペディキュアをした妻は臨月の身ながら義弟と情事にふける。これはまさに、シェークスピアの偉大なる悲劇「ハムレット」を翻案したものだ。では、恨みを残して亡霊となる先王が夫とすれば、ハムレットは?

 なんとハムレット王子は胎児である。母胎のなかで逆さまになり、じっと腕組みをして出生の時を待っている。母と叔父が交わす愛のささやきを聞き、ラジオからあらゆる世界情勢や思想哲学の知識と情報を得て、恐ろしいたくらみに加担することになるわが身を憂うのである。

 いまだ名もなき王子は物語の語りを担う。登場するどの大人より優れた知性をもち、冷静で思弁的だ。胎盤から摂取するワインの味を品評し、父の危機を救うべく、「生まれて、行動せよ!」と自己を叱咤(しった)する自立した胎児なのである。その大真面目な語りに漂う悲哀とおかしみ……。さて、恐るべき殺人計画は遂行されるのか。

 原題『Nutshell《胡桃(くるみ)の殻》』もハムレットの一節にある。胡桃はもちろん王子のいる子宮のことだが、すべては人間の脳で創り出された物語にすぎないという比喩でもあるのだ。

 巧妙なサインを随所に仕込んだ濃密な文章を、マキューアン作品ではおなじみの村松潔氏の訳が余すところなくすくいあげる。いまもっとも喝采を送るべき1冊である。(村松潔訳/新潮社 1944円)

<略歴>
1948年、英国生まれ。「アムステルダム」でブッカー賞。著書に「未成年」など

どうしん電子版のご案内
北海道新聞 購読の申し込みはこちらから
新聞配達スタッフ募集
ページの先頭へ戻る