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<訪問>「その声を力に」を書いた 早乙女勝元(さおとめ・かつもと)さん

庶民にとっての戦争伝え続ける

 戦争の悲惨さを伝えようと、100冊を超える本を書いてきた。1971年に発表したルポルタージュ「東京大空襲」(岩波新書)は55万部を数え、今や“古典”となった。

 45年3月10日未明、東京の下町は米軍機の無差別爆撃によって焼き尽くされた。家を失った人101万人、死者10万人。2時間半の間に多くの命が奪われ、道路や川には黒焦げの死体が折り重なった。

 大空襲から25年後。12歳で被災した著者は30代後半になっていた。当時、「東京大空襲の戦災記録が原爆に比べて遅れている」ことに心を痛め、目を閉じれば、死んでいった同級生の顔が浮かんできた。

 「おまえさんだけ特別に生き残らせてやるよ。だから戦争の惨劇を伝えてくれ、彼らが私にそう語りかけているように思えたんです」

 そんな時、歴史学者の家永三郎さんと出会い、相談したことで前へ動きだす。空襲の体験を継承することへの賛同の輪が広がり、70年8月に「東京空襲を記録する会」が発足した。証言集の編さんを美濃部亮吉都知事に要望すると「快諾」。編集作業は有志で行うことになった。

 都民から体験記を集める過程で、のちにベストセラーとなる「東京大空襲」が生まれる。「体験記の原稿を書く人のために参考になる一冊があったほうがいい。『君が書いてくれないか』と仲間から頼まれ、急きょ1カ月で仕上げた」

 体験記は3年がかりで「東京大空襲・戦災誌」(全5巻)として結実し、千人の証言が盛り込まれた。著者は2002年に「東京大空襲・戦災資料センター」を立ち上げ、今も館長を務める。06年以降は「東京大空襲」集団提訴にかかわってきた。

 本書は初の自伝で、少年期のころや父母のこと、戦後の夜学時代、B29の元搭乗員との交流、妻との突然の別れなどがつづられている。

 大空襲のあった日。大本営は「火災は宮内省で午前2時35分、その他は8時ころまでに鎮火」と発表した。市民の家屋などは「その他」と片付けられた。

 著者は「その他」にこだわった。死者には一人一人かけがえのない生があった。生まれた時から死の瞬間まで、空白の部分を聞き取り、埋めることを続けた。

 その作業を通じて庶民にとっての戦争は何であったかを訴えた。

 「記録する会」の設立当時のメンバーは、86歳の著者だけとなった。

 「最初に一人が声を上げることで大きな力になることを知ってほしい。私はそれを人生から学んだ。この本のタイトルにしました」

編集委員 伴野昭人

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