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太宰治の「誓約書」現存 心中未遂の後始末記す

 作家太宰治が1937(昭和12)年3月、当時内縁の妻だった小山初代と起こした心中未遂の直後に、師事していた井伏鱒二らに宛てた誓約書が残されていたことが5日、分かった。心中未遂は初代の不義が原因。覚書で太宰は初代のことを不義の相手に「一任」すると記している。太宰は初代と離別した後、職業作家としてさらに本格的に著述活動に入っていくことになるが、そのターニングポイントを記録した貴重な資料として注目される。

 覚書は、東京・神田で6~8日開催される「明治古典会七夕古書大入札会」に出品される。太宰の書誌研究の第一人者で、元神戸女学院大学学長の故山内◆史氏の著書「太宰治の年譜」(大修館書店、2012年)に全文が収録されているものの、現物が一般の目に触れる機会は、少なくとも近年はほとんどなかったとみられる。

 青森の芸者だった初代は1930(昭和5)年、太宰の手引きで上京。36(同11)年10月から11月にかけて、太宰が薬物中毒治療で入院中、初代が太宰と縁戚でもある画家小館善四郎(1914~2003年、青森市出身)と情を交わしたことが発覚し、太宰は初代と群馬県水上村の谷川温泉で睡眠薬カルモチンによる心中自殺を図ったが、未遂に終わった。太宰は、心中未遂のことを作品「姥捨」に書いている。

 覚書では「爾今(じこん)(今後) 初代のことは小館善四郎に一任致し 私 当分 郷里にて静養いたします」としている。

 井伏はエッセー集「太宰治」の中で「(酒を飲み)太宰の上機嫌になつてゐるところを見はからつて、どうだ君、初代さんとよりを戻す気はないかと云(い)ふ。すると太宰は、居直つたかのやうに、きつとして、その話だけは絶対にお断りしたいと、きつぱりした口をきく。そんなことが二度か三度かあつたと思ふ」と述懐している。

 太宰は初代との別れを経て39(昭和14)年、石原美知子と結婚、三鷹で安定した時期を迎える。太宰の作家人生は一般的に、そのおかれた環境や作風などから、初代との心中未遂事件前と事件後、戦後の3期に分けて論じられることが多い。

 美知子との婚約時も、太宰は井伏ら宛てに誓約書を書いている。「小山初代との破婚は、私としても平気で行ったことではございませぬ。私は、あのときの苦しみ以来、多少、人生といふものを知りました。結婚は、家庭は、努力であると思ひます。厳粛な努力であると信じます。浮いた気持は、ございません。貧しくとも一生大事に努めます」(1938年10月24日付、原本は神奈川近代文学館蔵)

 弘前大学教育学部講師の仁平政人氏(文学)は今回の宣誓書を「太宰の前期の終わりを示す貴重な資料」と指摘。太宰をめぐっては今年没後70年、来年生誕110年に当たることもあって、あらためて注目度が高まっており、仁平氏は「太宰の人生は調べ尽くされた感もあるが、一人の人間に関わる情報は尽きないものだと感じる。太宰の周辺にいた人たちの研究はまだ課題として残されており、来年の生誕110年に向けて、新たに見えてくることもあると思う」と話している。
(※◆は示へんに羊)

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