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<第6部 教訓を生かせ 元行員座談会>上 米支店外国人退職相次ぐ つぶれないと思っていた カブト融資審査機能まひ

 1997年11月の北海道拓殖銀行(拓銀)破綻をめぐり、北海道新聞は6月中旬、NTTデータ経営研究所研究理事の山上聡氏(59)、ぎょうざとカレーの「みよしの」を運営するテンフードサービス(札幌)社長の西田治氏(52)、札幌市厚別区の中堅スーパー、ホクノー社長の野地秀一氏(49)の元拓銀行員3人による座談会を開いた。詳報を3回にわたり紹介する。初回は破綻前後の様子から。(司会は元拓銀行員=95年入行=の経済部・宇野一征)

 ――行員として危機を感じたのはいつごろですか。

 山上氏「米ニューヨーク支店でドル資金調達を担当していた1994年ごろから感じていました。翌95年、大和銀行(現りそな銀行)ニューヨーク支店で巨額損失を隠していた『大和銀事件』が発覚。邦銀、特に体力の弱い銀行は、資金調達に高い金利を設定されました。でも本部は資金の調達が最優先で金利は多少無理してもいいとの姿勢。それを見て外国人スタッフがどんどん辞めていきました」

 野地氏「そのころ私は東京で資金調達を担当していました。破綻の少し前、外国ではなく国内の銀行から資金調達を断られ、『まずいな』と思いました」

 西田氏「92年に本州から札幌の支店に異動後、カブトデコムの経営不振が明らかになったことが影響したのか、お客さんから『拓銀は大丈夫なの』と聞かれるようになった。預金が流出し始めましたが、まさか破綻するとは思っていませんでした」

 ――破綻の発表は97年11月17日。日本がサッカーワールドカップ初出場を決めた翌日でした。

 山上氏「テレビでサッカーのニュースを見ていたら『拓銀経営破綻』とテロップが流れたんですよ」

 野地氏「私も当日朝、出社前に寮の風呂に入ろうとした時、同僚から聞かされました。慌てて部屋に戻り、テレビをつけました」

 西田氏「いまの職場に転職するため、前の年の春に退職していたので、破綻を知ったのは夜帰宅してからでした。破綻後、しばらくは『辞めたのは破綻前か破綻後か』という壁を感じて『最後まで勤めていれば良かった』と思ったこともあります」

 ――破綻は、カブトデコム、ソフィア・グループなどへのずさん融資のためと言われています。

 山上氏「拓銀は都市銀行としては全国最下位で、融資を拡大しなければいけませんでした。一方で北海道では王様のような存在。融資を止めて企業を倒産させると、利権を含め全部の事情が表に出てしまう。王様だからこそ、そういう融資を葬れないという問題が、不良債権処理を遅らせ傷を深くしたのではと思います」

 野地氏「その通りです。行員時代にカブトデコムが建設した洞爺湖畔の高級ホテル『エイペックスリゾート洞爺』(現ザ・ウィンザーホテル洞爺)に行ったんです。敷地の入り口からホテルまですごい距離がある一方、ホテルの中は閑散としている。『この案件はおかしい』と。審査機能がまひしていると感じました。(破綻前まで進んでいた)北海道銀行との合併交渉でプライドを捨てて全面降伏し、拓銀の役員が総退陣していれば、と思うこともあります」

 西田氏「やはり、つぶれないと思っていたのが、つぶれた原因でしょう。経営陣をはじめ、誰もがつぶれないと思っていた。96年春、退職することを当時の支店長に伝えると『マスコミではいろいろ言われているが、拓銀は大丈夫だ』と言われたのを思い出します」

 山上氏「(破綻前年の96年11月に当時の橋本龍太郎首相が打ち出した)金融ビッグバンは、病人を外に出して風邪をひかせる政策でした。護送船団方式からの突然の転換で、一番船脚が遅い拓銀がつぶれた。破綻させたのに、いまの金融の制度や銀行は、どこも良くなっていない。じくじたる思いです」

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