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<東條慎生> 【山下澄人】原点としての富良野塾 表現法、倉本聰への返歌

 今年1月に第156回芥川賞を受賞した山下澄人は、1966年神戸市生まれで、北海道とは一見無縁だ。しかし、山下の現在に至る表現活動の原点は、倉本聰の俳優脚本家養成所として知られる富良野塾2期生としての2年間にある。

 山下は卒塾後も塾の公演にしばしば出演していたものの、あるとき直前に下ろされ、後に自ら劇団を立ち上げる。その劇団FICTIONの公演に来ていた作家保坂和志の推挙によって彼は小説家として登場した。作品の多くは小説の一般的な規範をやすやすと破っていく。ある人物が知り得ないはずのことを一人称でそのまま語る手法や、虚実の反転、因果関係の破綻や、果ては生死の境すら不分明にもなる。

 受賞作「しんせかい」ではこうした実験性は抑えられ、おおむね写実的に読める。富良野塾は【谷】、倉本は【先生】と呼ばれるものの、「山下スミト」による一人称の語りは、この作品を現実と地続きに思わせる。実際、入塾の経緯やいくつものエピソードは著者が事実と認めてもいる。

 しかし、叙述の細部ではつねにその事実性が揺るがされる。冒頭の船乗りの言葉は、言ったかどうかが怪しまれ、そもそも船乗りはいたのかがわからなくなり、末尾においても月が満月だったのか欠けていたのかが曖昧になり、そもそも月も出ておらず夜でもなかったかもしれないと書かれる。

 保坂の著作によって小説への偏見を払拭(ふっしょく)し、「昨日夢で見たことと昨日経験したことは一緒」だという感触を書いてもいい、という発見がこの山下の体質的な方法を支えている。一見常識的な約束事を、自身の感覚、リアルさに立ち返ることで批評していく、したたかな文体だ。このことは、山下と倉本、両者の表現のあいだに緊張関係を生み出す。

 倉本は富良野塾開設1年目、84年までの記録『谷は眠っていた』(87年8月~88年12月に雑誌連載)において、『北の国から』を少年と少女が「都会の生活に欠落した何かを確実に身につけ」ていく物語だとし、富良野塾を若者たちの「未知への入植」だと呼ぶ。そしてまさに山下が入塾した年に連載されていた『ニングル』(85年1月~12月に雑誌連載)は、人里離れて隠れ住む小人が電話やテレビに毒され狂ってしまう悲劇による現代社会批判だった。舞台版には山下も出演経験がある。

 未開ゆえに豊かなもの、心優しい純朴な先住民という、都会から見た美化と表裏一体のロマンティシズムが、北海道という「新世界」に投影されている。しかし、実際に富良野という土地に根を下ろし、塾に私財を投じる倉本は、そのロマンを生き抜き、それゆえにこそ塾生たちにも畏敬されている。

 だが、スミトは【先生】のことを知らずその畏怖を共有しない。命じられた作業を「意味がない」と言い「体制批判」と呼ばれさえする。『谷は眠っていた』では、農作業に比べて少しの喜びもないと機械に翻弄(ほんろう)される工場労働を批判する手記が引用されているのに対し、スミトはずっと工場でも良いと言う。入塾の理由に授業料がないことを挙げるスミトは、倉本のロマンをどこまでもずらしてしまう。

 最後、スミトは「すべては作り話だ」と宣言する。一見当たり前だけれども違う。30年の時を経た、事実と虚構の曖昧になった場所にこそ、この回想の切実さがある。雪山から吹き下ろす冷たい風、腰まで埋まる雪、自分たちの生活費を稼がなくてはならない夏の農作業、救急車に頼れない広大な土地。富良野はスミトにとって生そのものが露呈する場所としてある。地に足のついた表現を、という生と演劇を接続する倉本の意図は、スミトを通して、「ほんとうのこと」と感じられることこそが「作り話」になる逆説として結実する。自分の感覚に即(つ)くことで、美化やロマンをどこまでも曖昧にしてしまう山下の文体の批評性はここにある。

 【先生】に演技を評価されたのが、人に褒められた初めての経験だったとスミト=山下は語る。「しんせかい」はまさにその原点を語りながら、倉本や富良野から受けとったものと、そこから生み出した自らの表現の方法を示した返歌としてある。

 <とうじょう・しんせい> ライター

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