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拓銀、道内経済に光と影 開拓期、低利で支える/バブル期、ずさんな融資

 北海道拓殖銀行(拓銀)は、その名の通り、明治期の北海道開拓時代から道内経済を屋台骨として支え、「拓銀さん」として道民に親しまれてきた。だが、バブル期に行った地場新興企業などへの融資が足かせとなり、深刻な経営難に陥る。バブル崩壊後に全国を覆った金融危機の波にものみ込まれ、1997年11月17日、当時の頭取、河谷禎昌氏は経営破綻を発表した。20年前、創業100年目前で力尽きた拓銀の歴史を紹介する。

 拓銀は1900年(明治33年)、開拓が進む道内に低利で資金供給するための国策銀行として発足した。初代頭取の曽根静夫氏は、「利己に奔(はし)らず、情実に流れず」「確実なる見込みある土地に対してのみ融通する」と述べ、堅実経営を掲げた。自治体や中小企業からの期待は高いが、野放図な融資で拓銀自体の経営を危うくしてはならないとの戒めだった。

 50年に普通銀行、55年に全国規模で業務を行う都市銀行に転換。首都圏や関西に店舗網を広げ、ニューヨーク、ロンドンなど海外にも拠点を設けて85年3月末の拠点数は200を超えた。幅広いネットワークを武器に顧客同士の取引の仲介や企業誘致にも力を注ぎ、「北海道のメインバンク」として存在感を高めた。

 堅実経営に陰りが見え始めたのはバブル期に入ってから。90年3月期に過去最高の経常利益448億円を計上すると、同年9月、新興企業を育成する「インキュベーター(ふ卵器)路線」などを盛り込んだ「21世紀ビジョン」を策定。10月にはビジョン推進の役割を担う総合開発部を設置して、融資拡大に乗り出した。大手都銀がプロジェクト融資や不動産融資で派手に稼いでおり、「都銀最下位行としての焦りがあった」と関係者は語る。

 拓銀はビジョンに沿って、胆振管内洞爺湖町に道内最大級の会員制リゾート「エイペックス」構想があるカブトデコムや、札幌市北区茨戸地区に大規模リゾート建設を計画したソフィア・グループなどの新興企業に巨額の融資を実施。東京や大阪でも不動産を担保に融資を増やした。

 同じころ、政府は地価抑制にかじを切った。大蔵省は90年4月、銀行の不動産向け融資に上限を設ける「総量規制」を導入。日銀も公定歩合を頻繁に引き上げ、バブル景気は91年に崩壊する。カブト、ソフィアなどへの融資は拓銀の「お荷物」と化し、総合開発部は94年3月に廃止された。

 河谷氏は94年6月の頭取就任後、不良債権処理とリストラを積極的に推進した。しかし、景気は一向に上向かず、不良債権が増加。金融不安が広がり、預金流出も進んだ。97年4月に始めた北海道銀行との合併交渉も頓挫した。

 11月3日に準大手証券の三洋証券が破綻。その翌日、金融機関同士で資金を融通する「コール市場」で初の債務不履行が起きた。余波で拓銀の資金調達も苦しくなり17日に破綻。翌98年11月、拓銀の道内事業は北洋銀行に、本州の事業は中央信託銀行(現三井住友信託銀行)に譲渡された。

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