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<書評>文学効能事典

エラ・バーサド、スーザン・エルダキン著

心身のトラブルに小説の処方箋
評 中村邦生(作家)

 心身が不調におちいったとき、どの小説をどのように読めば慰めと癒(いや)しを得られるのか?

 この本は私たちが日々かかえこむ悩みを症例ごとに、古今東西の小説の効能(ときに副作用)を記す「読書療法」書である。

 超実用的ともいうべきユニークな本だが、文学作品にこうした人生の処方箋を求める試みは珍しいというわけではない。有名なところでは、エーリッヒ・ケストナー、寺山修司、まどみちおの『人生処方詩集』であろうか。しかし本書の特質は、人生万般の心身のトラブルを網羅したうえ、それをあくまでも小説にこだわって効能別に処方し、症状の緩和をはかろうとする治療方針の徹底ぶりである。しかも、生真面目一辺倒ではなく、歯痛とか下痢とかへのユーモラスな軽めの処方箋も収載していることは好感が持てる。

 私を例にすると、このところ怒りを覚えることが多々あり、気分的にかなり疲れている。必ずしも治癒したいと思っているわけではないが、ためしに「腹が立ったとき」という症例項目を見れば、アーネスト・ヘミングウェーの『老人と海』を処方している。キューバの老漁師の巨大なマカジキとの三日に及ぶ大海のなかの苦闘を描いた傑作だが、処方箋として「この物語のシンプルで落ち着いた文章にひたれば、腹が立った時も、感情の波から解き放たれるだろう」とある。さて、効能のほどはどうか? ここで重要なことは、ひとたび『老人と海』を読み始めたならば、多くの魅力的な小説がそうであるように、悩みの処方に焦点化した教訓的読解は背景にしりぞき、他のさまざまな読みの妙趣を発見するにいたることだ。老人が魚や海老(えび)を丸ごと喰らいつく生々しい食の情景とか、舟から放尿しながら星空を見つめるとかいった細部の描写の輝きを含めて。

 本書は小説の愉(たの)しさの可能性を伝える新手の〈家庭の医学〉の本と言えるが、それぞれの病状への処方と効能を実検した上で、常備すべきか否かをお決めいただきたい。

(金原瑞人、石田文子訳/フィルムアート社 2160円)

<略歴>
バーサドとエルダキンは2008年からロンドンを拠点とする文化教室で読書療法を行っている

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