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<動き始めた2世 被爆72年>上 母を知る旅へ 運命の地、3人で踏む

 6日午前8時15分。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊式。透き通るような青空と焼けつくような日差しの中で、佐藤秀則さん(66)=札幌市=と妹の土谷節子さん(64)=帯広市=、弟の佐藤康則さん(56)=同=は初めて、並んで目を閉じ、72年前を思った。「母は、どんな空を見たんだろう」

 1945年8月6日午前8時15分。母は爆心から1・6キロ、勤め先の広島貯金支局(当時)で被爆した。

■苦しみ実感

 18歳の母はピカッという光が走った後、すさまじい爆風で机から吹き飛ばされた。必死に立ち上がると、すぐ近くに座っていた同僚の女性は血だらけになって死んでいた。4階の職場から逃げる階段の途中で、砕けたガラスで腹が裂け、内臓が飛び出した少女を見た。「ごめんなさい」とわびながら、外へ走り出た。

 50分の式典の間、3人はあの日の母を思った。「今まさに、地獄のようなマチを見ているのだろうか」と秀則さんは考えた。康則さんは「母の苦しみが、重りのように、ズシンと降りてきた」と感じた。土谷さんは白いレースのハンカチでくるんだ、笑顔の遺影に話し掛けた。「本当によく、生きていてくれたね」

 秀則さんと康則さんには母から体験を聞いた記憶がない。だが、被爆に翻弄(ほんろう)される姿をそれぞれ見てきた。

 秀則さんは48歳で難病の重症筋無力症を発症。母は「私の被爆のせいじゃないか」と医師を問い詰めた。「母はいつまで、おびえなければならないのか」。怒りが湧いたことを覚えている。

 康則さんは数年前に初めて、母が自分を産むか産まないか、悩み抜いたと知った。被爆などを理由に、医師は「産むな」と止めたという。「母を苦しませてしまった」。それでも、産んでくれた。

 土谷さんだけは、子どもの頃から、毎晩布団の中で、母の体験を聞いた。その言葉は、まるで自分が現場にいるように映像を浮かび上がらせ、土谷さんの体と心に染み込んでいった。「なぜ私にだけ話したのか…。母と娘の関係は特別だったのかな」。そらんじた母の話を、今は代わりに、兄弟に話して聞かせている。

 70代で筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患った母は、3人が「これが最後かもしれないから」と何度誘っても、広島へ行こうとはしなかった。「もう広島はいいわ」と言い、2年前の8月5日、88歳で亡くなった。母の代わりに「どうしても3人で」来たかった。

 式典後、3人は母が被爆した貯金支局の跡地を訪ねた。路面電車の線路に面したその場所には、奇麗なマンションが建っていた。記憶を伝えるのは、高さ1・2メートルほどの慰霊碑だけだ。

■慰霊碑に礼

 母はここで、腕がちぎれかかっている人や全身やけどで皮がぶら下がった人、「痛い痛い」「熱い熱い」「水、水」と叫びながら歩く人の波を見た。次々に、バタバタと倒れていく人々。悲鳴も出ず、助けもできず、ぼうぜんと立ち尽くす母の姿を、3人は思い浮かべた。「たまらないな」と秀則さんはつぶやいた。

 「私たちは被爆2世。それは運命だと思うの」と土谷さんは言った。「核兵器なんて、もういらない。母のような思いをする人は、もう1人もつくりたくない」。母もそれを望んでいたのだ。だから自分に語り継いだのだと今、強く思う。

 慰霊碑には、被爆直後の貯金支局の写真を刻む銅製レリーフが張られていた。3人は代わる代わる、何度もなでた。「ようやく3人で来れたよ」「ありがとう」。自然と言葉が出た。銅板は焼けるように熱かった。

 原爆投下から72年。被爆者手帳を持つ道内被爆者は3月末で321人、この10年で200人近く亡くなった。あの日の記憶が遠ざかる中、危機感を強める「被爆2世」たちがいる。時に悩み、時にもがきながら、父や母の「ノーモア・ヒバクシャ」の祈りを継ごうと動きだす人々を訪ねた。(報道センターの森貴子が担当し、3回連載します)

 <ことば>被爆2世 広島、長崎で被爆した人が父や母で、1946年6月1日(広島)または同4日(長崎)以降に生まれた子ども。母親が妊娠中に被爆した場合は「胎内被爆者」として、1世に区分される。全国被爆2世団体連絡協議会などによると、総数は30万~50万人とも推計されているが、実態は分かっていない。被爆者の高齢化が進む中、共同通信が昨年7月、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に参加する42都道府県の43団体に実施したアンケートでは、「存続に向けて最も必要なこと」として、約半数の団体が、2世の積極的な活動参加を挙げた。

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