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明日を歩く人々 夕張で

<1> 海を渡って70年 つらい経験、いい思い出 (2007/04/01)

東北から夕張にやって来て70年。ハルさんは「ここで死にたいの」と言う

財政再建計画による負担が1日から、いよいよ住民生活にのしかかる。事故で犠牲となり、高台に埋葬された炭鉱マンたちの墓が、再生を目指すマチを見守る=3月31日、夕張市鹿の谷

 十八年に及ぶ夕張市の財政再建計画は一日から、実質的なスタートを切る。人々はマチの「明日」を信じて、歩き始める。夕張の歴史とともに生きてきた一人のおばあさんの昔語りを交え、市民の今を見つめる。(文を報道本部・古田佳之が、写真を写真部の鮫島晶子が担当し、七回連載しました)



 夕張市街地から二十キロ。山あいに点在する木造家屋は、まだ雪に囲まれている。十年前まで商店だったトタン張りの二階建ての家で、ハルさん(91)=仮名=は一人暮らし。毛糸の玉を転がし、編み物の真っ最中だった。

 ハルさん 財政再建だってね。除雪の回数が減るんじゃないか、心配だね。ご近所さんは「数字ばかりで、なんだかよく分からん」と言ってた。「家と土地があるんだから、離れるわけにいかん」とあきらめている人も多いよ。

 私は二十歳の時、東北の農家から、商店をやっていた夫の家に嫁いだの。青函連絡船と列車を乗り継ぎ、越えても越えても山ばかり。そう思ってたら、ちんちゃいマチに着いた。最初は不安で、たんすに帰り賃の二十円札を忍ばせていた。

 米をとぐ時、冬の井戸水はしゃっこくて。実家は貧しかったから小学校出て田植えを手伝い懸命に働いた。だから夕張来ても、それが当然だと思ってた。


 夕張の歴史は一八八八年(明治二十一年)、石炭層の大露頭が発見された時に始まる。新しい炭鉱ができるたび、街が生まれ、最盛期の一九六○年、人口は十一万人以上に膨れ上がったが、相次ぐ閉山で今は一万三千人を割った。劇場もあったハルさんの集落も、二十年前の閉山で二千人が百五十人足らずに減った。

 かつて炭鉱街には「友子(ともこ)制度」があった。身寄りがない鉱員の家族同士、落盤事故などで命を失った者の遺族を物心両面で支え合った。そんな相互扶助の精神は、今もあちこちに生きていて、だれかが入院したり、不幸があると、ご近所同士がなにかと助け合う。「ばあちゃん、元気かい?」と、ハルさんのもとにも、元炭鉱マンが顔を見にやって来る。

 一人暮らしだけに、危ない目に遭うこともある。先日は振り込め詐欺の電話がかかってきた。そして、財政再建…。市外に住む長男が心配し、同居を勧めているが、ハルさんはこの家を離れるつもりはない。

 ハルさん いまさら知らない人だらけの土地には行けない。人は減っても、ご近所づきあいが残り、きれいな水と空気がある夕張が一番。さみしくなることはあるよ。でも、そんな時は、編み物すれば忘れられる。夕張を立て直すのに、散らばった集落をまとめて、除雪費などを減らすべきだという考えがあるそうね。時代の流れとは思うけど、海を渡って頑張ってきた人は、その場所で死にたいの。

 盆や正月には、孫やひ孫も大勢集まる。大家族に囲まれ、ハルさんはとびきりの笑顔を見せる。

 ハルさん 五十年以上前に夫は脳出血で倒れて四十二歳で死んだの。最後は寝たきりで口がきけなかった。心配すんじゃないと言ったら、ゆっくりまばたきして合図した。酒もたばこもやらない、子煩悩で優しい人だった。そして、私は一人で五人の子供を育てた。夜明け前にこっそりズリ山(商品価値のない石炭の山)に行き、石炭を袋いっぱいに詰めて燃料にあてた。ここまで頑張ってきたことを、夫にほめてもらいたかったな。夕張に来て七十年。「負けまい、負けまい」と心でつぶやき、あっという間に過ぎた。不思議だよ。つらい経験は全部、いい思い出に変わった。夕張もこれから大変だけど、きっとよくなる。

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