北海道・東北考 <第1部 きずな再び>
| 東日本大震災からの復興・再生を目指す東北の姿を、歴史的・地理的にゆかりの深い「隣人」として、そして共通の課題に直面する「地方」としての視点から見つめ、長期連載で検証します。第1部では、芽生え始めた「きずな」復活の動きを追います。(東北臨時支局の勝木晃之郎、渡辺玲男が担当、8回連載しました) |
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<1>向かう先はアジア 「脱東京」連携の芽 (2012/01/03)
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| 香港中心部にオープンした初の北海道と東北の共同アンテナショップ。「まとめて物産を送ることでコストも下げられた」と関係者 |
林立する高層ビルと雑多な商店街のはざまを人や車の波が絶え間なく行き来する。香港・九龍半島の南端に位置する最大の繁華街、尖沙咀(チムサアチョイ)。その中心部に建つ商業ビルの16階に、ひときわ人々でにぎわう一角があった。
ガラスの棚には道産の焼きトウモロコシや山形産のけん玉などが並ぶ。昨年12月にオープンした「北海道・東北香港アンテナショップ」だ。「これ、おいしそう」。約40平方メートルの店内では、家族客やカップルらが次々と商品に手を伸ばした。
復興へ発信
北海道と東北6県、新潟県の官民でつくる「北海道・東北未来戦略会議」が出店した。香港からは年約45万人が日本を訪れる。アジア全体から人が集まる拠点でもある。連携して物産や観光を売り込もうと、初めて海外に打って出た。
本来は昨年3月末の開店を目指していたが、直前の東日本大震災で約9カ月ずれ込んだ。だが、復興を目指す上でアジアへの情報発信を担うショップへの期待はより高まった。
「これからは東北と北海道が力を合わせることが大事だ」。開店初日、現地に駆けつけた戦略会議会長の三村申吾青森県知事は、連携の意義をかみしめるように語った。
戦略会議は前身組織が1992年に発足。2年後には両地域の一体的な開発を目指す構想「ほくとう銀河プラン」をまとめたが、この20年、成果は乏しかった。津軽海峡という壁。そして互いに目は中央に向いてきた。「各道県は仲間というよりライバルだった」と道幹部OBは言う。
しかし、過疎や空洞化が進む「地方受難の時代」と、そこに起きた未曽有の震災は、両地域が再び向き合う契機となりつつある。昨年11月、新潟で開かれた北海道・東北知事会議。高橋はるみ道知事は「東北の復旧復興は北海道も一体となって支援する必要がある」と強調した。吉村美栄子・山形県知事は、香港のアンテナショップとは別に、アジアで共同の観光物産展を開くことを提唱。その発言を受け、すぐに準備が始まった。
2015年度の新函館開業で津軽海峡を越える新幹線も、新たな絆を後押しする。
北海道商工会議所連合会の高向巌会頭は「東京より東北と近くなることに新幹線の意義はある。相互に人が行き来すれば両地域の発展につながる」。札幌延伸も決まり、交流促進への動きは一層強まり始めた。
漁業再生へ
「三陸の漁業を復活させてほしい」。そんな要請を受け、岩手大客員教授に就いたのは、元北大水産学部長の山内皓平・愛媛大南予水産研究センター長だ。函館などで水産業を軸に産学官連携に取り組んだ実績を買われ、白羽の矢が立った。
皮切りに7日、岩手県釜石市に全国の水産研究者を集めてフォーラムを開く。「経験を生かし、三陸漁業を再生したい。道内漁業の将来にも必ず役立つはず」と山内氏は言う。
小樽市出身の平山健一・前岩手大学長(北大OB)は昨年11月、盛岡市で開かれた北大同窓会で、出席者を前に切々と訴えた。「震災は、市場原理社会のもろさを気づかせてくれた。東京との結びつきを求める社会から少し離れ、東北と北海道とが連携を強めていく時ではないか」
被災地支える深い縁
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勇壮な和太鼓の音が、がれきが残る村に響き渡った。元日朝、岩手県北部沿岸の野田村にある愛宕神社。村唯一の郷土芸能「なもみ太鼓」の団員たちによる毎年恒例の打ち初めに、初詣に訪れ、村の復興を願った地域の住民たちが、喝采を送った。
東日本大震災の津波で被災し、村民4700人のうち500人以上が小さな仮設住宅で暮らす。太鼓は20年以上前、村民有志が「地域を活気づけたい」と発案。祭りなどイベントごとに打ち鳴らされては村民を鼓舞し続けてきたが、震災で団員も村民も心がなえ、週2回続いてきた練習も中断した。
交流の象徴
そんな時、手を差し伸べたのは村の友好都市で長年交流があった日高管内様似町だった。「ぜひ演奏に来てほしい」。昨年8月の町の夏祭りに、なもみ太鼓を招待。それが練習再開の契機になった。
漁業のマチ様似町は明治以降、野田村からの出稼ぎ漁師たちに支えられてきた。その様似に伝わる「アポイ太鼓」に、野田の人々が触発され、郷土で作り上げたのがなもみ太鼓だ。過疎化、後継者不足…。同じ悩みを振り払うように鳴らし続けた太鼓の音は、互いの交流と連帯の象徴でもあった。
なもみ太鼓の会会長の村職員泉沢弘さん(51)は言う。「様似の支えに応えるためにも、頑張って太鼓の火は消さない。いつか一緒に演奏できたら」
津軽海峡を挟み「近くて遠い」とも言われる北海道と東北。しかし、縄文期から海を越えて人々が盛んに行き来し、共通の文化圏を形成した。明治期には数多くの東北人が海峡を越え、北の大地の開拓を支えた。そんな脈々と紡いできたつながりは、被災地に生きる人々を支え、前へと進む後押しをしている。
道内を優先
「以前のように東北各地、そして北海道へと発送できるよう頑張りたい」。昨年11月、早朝の仙台市中央卸売市場。甘い香りを漂わせる真っ赤なイチゴを前に、宮城県亘理町の齋藤邦男町長が力強くあいさつした。
震災前、年間約4千トンと東北一の生産量を誇っていた亘理町と山元町の「仙台いちご」は、この日が今季初出荷。実は従来、その主要販路は北海道だった。5割超が道内向け、札幌でのシェアは6割近い。「高速道路がないころから、関東産などより店頭に1日以上早く出せた」(JA全農みやぎ)と、地の利と“ゆかり”を生かし、道内の市場を固めてきたからだ。
津波で農地の9割が被災し、初出荷は例年より1カ月遅れ、収穫量も震災前の約2割にすぎない。それでも道内の取引先には最優先で出荷した。道内の仲卸らから届く「やっぱりイチゴは宮城でないと」というエールへの感謝の思いだった。
今年は震災前の4割まで戻す計画。根強いファンを抱える道内の需要が、本格復興のカギを握っている。
東京電力福島第1原発から約60キロの距離にある福島市。原発事故で不安な日々を過ごしていた主婦渡辺民子さん(62)は昨年4月、書棚に眠っていた古い記念誌を久々に手に取った。
そこには、明治期に旭川市東旭川町のペーパン地区に入植した移住団の団長だった曽祖父菊田熊之助さんの足跡が記されていた。受難に見舞われた故郷を離れるか否か。同じく揺れる心で北に向かっただろう先祖の「思い」を知りたかった。
原野を切り開く困難な日々。最大のよりどころは故郷とのつながりだった。北海道に渡った人、東北に残った人。互いを支えに、それぞれが礎を築いた。前を向き、ここで生きよう。そう勇気がわいた。
秋にも母(89)を連れ、曽祖父の遺骨が眠る同地区を半世紀ぶりに訪れるつもりだ。「復興を目指す多くの人の励みになるよう、先人たちの歴史を伝えていきたい」
北海道と東北との長く、奥深い支え合いの歴史。そこから新たな“芽”が生まれようとしている。
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