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テニアン 平和の島を求めて

国のため…信じた囚人 北マリアナ・テニアン島 (2008/08/05)

受刑者が建設し、B29が発進したテニアン北部の旧滑走路。今は使用されておらず、静けさが支配する

炎天下、広大な飛行場用地を手作業で整地する「囚人部隊」=「日本行刑史散策」から

開戦直前、網走などの207人滑走路建設

 広島、長崎に原爆を投下した米軍B29爆撃機の発進基地テニアン。太平洋戦争直前、その飛行場建設に網走や札幌、函館各刑務所はじめ全国から約千人の「囚人部隊」が動員された。日本の南洋進出を担った北マリアナの小島は米軍占領後、本土空襲の拠点に転じる皮肉な運命をたどった。「ヒロシマ」から六十三年目の夏、かつて原爆の島にいた関係者を訪ね、受刑者の足跡を現地で見た。(編集委員 四ツ屋久夫)

 サイパン空港を小型機で離陸して数分、青い海の向こうにテニアン島のジャングルを横切る巨大な滑走路が見えた。「日本の囚人が造ったって? アメリカじゃないのか」。操縦士が肩をすくめた。

 一九三九年(昭和十四年)、対米開戦をにらみ飛行場建設を急ぐ海軍の要請で、司法省は前例のない受刑者二千人の南洋派遣を決めた。テニアン島と、マーシャル諸島ウオジェ島の二島に各千人。

 戦時中の刑事行政をまとめた「戦時行刑実録」(矯正協会編)によると、道内の刑務所は網走の百三十六人を筆頭に札幌三十人、函館二十二人、旭川(支所)十九人の計二百七人を選抜。刑期の残りが一年半以上ある約三百人の希望者の中から、五十歳以下で猛暑の重労働に耐えられる頑健な者に絞り込んだ。

 予想外に南洋希望者は多かった。「罪人でなく、一兵卒として国のために働くことに誇りを感じたと思う。任務を果たして仮釈放の期待もあっただろう」。元札幌刑務所看守長で、著書「北海道行刑史」にテニアン派遣を記述した重松一義さん(77)=東京都府中市、元中央学院大教授=は言う。

 厳寒の北海道を出発、横浜港発の輸送船で四〇年二月、上陸した。炎熱下の密林で巨木を倒し、砕いたサンゴなどを敷いて舗装した。

 網走勢は人数も多く、美幌飛行場建設の経験から手際の良さは群を抜いていたという。当時小学生の宜野座朝憲(ぎのざちょうけん)さん(77)=那覇市、沖縄テニアン会会長=は、遠くから受刑者を見た。「粗末な小屋が並び、網走の重罪人がいると父から聞いて子供心にどきどきした」

 集団赤痢や腸チフスで二十四人の死者を出しながら、飛行場は真珠湾攻撃直前の四一年十月、完成した。

原爆機の基地化 運命知らず

 四三年春にテニアンに配属された海軍第一航空艦隊の戦闘機パイロット宮坂栄治さん(81)=宗谷管内枝幸町=の記憶は鮮明だ。「滑走路は全長二千五百メートル。広くて立派な飛行場だった」と回想する。

 だが惨敗したミッドウェー海戦を経て戦力はどん底状態。「ゼロ戦や爆撃機が三十機程度。搭乗訓練も月五、六回しかなかった」

 宮坂さんがヤップ島に転属した後、テニアンは陥落した。米軍は滑走路を拡張し、「囚人部隊」が二年を費やした飛行場は日本本土爆撃の最前線となった。

 四五年八月六日、テニアンを離陸したB29「エノラ・ゲイ」が広島に原爆を投下、三日後に長崎が被爆した。

 井上茂さん(78)=旭川市=一家は戦前から農業移民でテニアンへ。勤労奉仕で飛行場造りにも参加。占領後に島の洞穴を転々とし、最後は家族四人で投降した。「収容所内の新聞で広島のキノコ雲の写真を見たが、まさか自分の島から出撃したとは。情けなかった」

 「囚人部隊」は日本に帰ったのか−。四一年、任務を終えた受刑者を、第三の飛行場建設が待っていた。トラック諸島春島へテニアンから先遣隊約百人が移り、残りはいったん横浜港に戻り再び向かった。重松さんは「トラックは輸送船撃沈や餓死で大きな犠牲を出した。北海道の受刑者も相当数含んでいたのではないか」と言う。

 炎熱下の重労働で建設した飛行場が、やがて日本空爆に使用される運命を知ることもなく南洋に果てた受刑者もかなりの数に上るとみられる。

 「日本人のツアー客はあまり来なくなった」と女性観光ガイドのデボラ・フレミングさん(50)。テニアンの滑走路は今も島北部にひっそりと横たわる。


 テニアン島
 第1次世界大戦後、日本の委任統治領に。面積100平方キロ、サトウキビ生産量は東洋第2位を誇り、1万5千人の日本人町を形成。米軍侵攻で日本の軍、民間死者数は計1万1千人を超えた。現在は北マリアナ諸島(米国自治領)の一部。人口約3千人。

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