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現代かわら版

【戦後の忘れ物―中国人強制連行・残留邦人】上・共和町発足から (2008/10/30)

共和町発足の作業場で作品について語る志村さん

発足の中国人強制連行の現場を歩く志村さん。今は団地が並ぶ

志村さんの作品(上)「初仕事の畚(もっこ)担ぎは辛(つら)かった」(下)「恨みを乗せて白煙は故郷へ」(いずれも花岡平和記念会所蔵)

 後志管内共和町発足(はったり)で敗戦直前、中国人労働者十五人が死亡する強制連行・強制労働が行われた。被害者の高齢化や日中関係の変化で急速に風化が進むこの問題を、現在も描き続ける札幌の画家がいる。網走管内清里町の中国残留邦人は、国の生活支援給付金申請の際に役所をたらい回しにされた苦い経験を忘れない。二〇〇八年秋の戦後の風景を二回にわたって報告する。(佐藤千歳)

札幌の志村さん 労働者の怒り 微細に

 今月二十四日夜。札幌日中友好協会は札幌市内で強制連行問題を絵で問い続ける画家・志村墨然人(ぼくねんじん)さん(85)の証言を聞く会を開いた。

 中国人強制連行の現場を淡々と語り続けた志村さんが声を詰まらせたのは、二時間に及んだ会の最後だった。

 「強制連行は、あの悲惨な姿を見た者でなければ分からない。息のある限り伝えることが、私の生きる証しだと思います」

 そう言って、うつむいた。

焼き場へ15往復

 敗戦の夏。志村さんにはカンカン照りの記憶しかない。リヤカーに急造の棺おけを載せ、寮から焼き場まで三キロの道を、二カ月で十五回、往復した。

 当時二十二歳だった志村青年は一九四五年二月、発足村(現共和町発足)の鹿島組(現鹿島)玉川出張所の事務員に採用される。鹿島組は発足の銅山で、施設の建設工事を請け負っていた。

 戦争末期、日本政府の政策により、中国大陸から労働者が連行された。鹿島玉川には四五年六月五日、二百人が到着する。長旅に疲れ切り、半分は顔から表情が消えていた。

 志村青年はこの日から、寮の世話係として加害者側に加わった。

 「華人は捕虜だ」と鹿島の上司は言った。「戦争なんだから捕虜がいて当然。日本も負ければこうなる。勝たなきゃ駄目だ」。志村青年もそう思った。

 中国人労働者は、沈殿池を掘る作業を割り当てられた。朝九時から午後五時までもっこ担ぎ。土木工事用のもっこは特大で、三、四回往復すると肩に血がにじみ腫れあがった。

 食事は豆の粉で作ったマントウ(蒸しパン)を塩汁で流し込むだけだった。

 猛暑が続いた八月上旬、病気の労働者二人が別室に隔離される。医者はいない。薬もない。治療はせず寝かせるだけ。窓は逃亡防止にくぎで止めた。蒸し風呂同然の部屋で、二人は数日で死亡した。遺体の腹がガスで膨れあがった。

 役場に行って火葬の手続きをし、火葬場で焼くまでが志村青年の仕事だった。風船玉みたいなおなかが目の底に焼き付いた。

 栄養失調と不衛生で、到着から敗戦までの二カ月余りで十五人、連行中と敗戦後を合わせ二十一人が死んだ。死亡率10.5%。

 一九四五年八月十五日、玉音放送。「よかったな、戦争が終わったんだよ。これから中国と日本は友達だ」。そう言う労働者と、志村青年は泣きながら握手した。

 その直後。鹿島組から指示が届く。

 「華人にかかわる書類をすべて焼け」

 戦犯としての追及を恐れた鹿島組の、素早い行動だった。

「泊」で沈黙破る 絵筆に込めた自責と償い

 敗戦後、志村さんは小さいころからの夢だった画家になるが、強制連行を描き始めるまでには長い道のりがあった。

 沈黙を破るきっかけは泊原発の建設計画。沈殿池も作業場も、原発予定地に近かった。

 「中国人が暮らした現場がなくなるかもしれない」。忘れられる危機感に駆られた。

 だが、思い出はつらく、やっと現場を訪れたのは一号機の運転開始が二年後に迫った八七年。まだ選鉱場の残骸(ざんがい)が残っていた。

 札幌の自宅に戻り、原稿用紙に手記を書いてみた。どうもうまくない。

 思い直して九五年、現場を一望する寺に作業場を借りた。「発足に立つとあの光景が見える」と。自分の記憶と、証言者の話を基に、強制連行を墨で描き始めた。七十歳を過ぎていた。

 「彼らと日常生活をともにしながら、自分は何もしてやれなかった。戦後、一日も忘れたことはない。発足は、償われない戦争責任の象徴。僕にとっては戦後人生の原点です」

 人の背丈を超える和紙に、強制連行された一人一人の怒りを鬼気迫る表情で細かく書き込んだ志村さんの絵。

 見ていて、一つ気づいた。描かれた中国人の表情のこと。拷問で宙づりにされても、空腹で横たわっていても、誰の目にも力がこもっている。

 「情けなく描きたくなかった。彼らが生きている誇りをね、描きたかった」

作品は大館市に

 この志村さんの作品は、道内にはない。秋田県大館市にある。

 大館にも、鹿島組が施設建設を請け負った花岡銅山があった。

 花岡では中国人労働者による蜂起「花岡事件」が起き、連行された千人の四割強が命を落とした。二〇〇〇年、和解が成立し、現地では中国人強制連行と花岡事件を記録するための記念館建設が進む。志村さんの絵も、記念館に収められる。

 NPO花岡平和記念会(大館市)の谷地田恒夫さんは話す。

 「企業側の目撃者が描いた志村さんの絵は、目と心に生々しく訴える。私たちの手で保存して、後世に残したかった」

 発足に強制連行された労働者が死んだ土地は今、原発で働く職員の団地になった。労働者が隊列を組んで登ったがけは削られ、沈殿池は、原発関連用地として立ち入りもできない。泊原発のPR施設「とまりん館」も、土器は展示しても強制連行には触れない。

 発足の記憶は、志村さんの絵の中にしかなくなろうとしている。

中国人強制連行・強制労働

 第二次世界大戦中、軍需産業の労働力不足に対応するため、1942年の閣議決定に基づき、中国大陸から労働者を強制連行し、各地の鉱山や軍需工場で労働させた。敗戦までに全国135事業所に3万9000人を連行し、6800人が死亡。うち道内は58事業所で1万6000人が強制労働させられ、3000人が死亡した。

 強制連行・強制労働問題については95年から中国籍の被害者が、日本政府と企業を相手取る訴訟を札幌を含む全国で起こした。

 昨年6月の札幌高裁判決では、「国家機関の権力なくしてなし得るものではない」と違法性を認定したが、時効と1972年の日中共同声明による中国側の賠償請求権放棄を理由に賠償責任は認めず、最高裁で原告敗訴が確定した。全国の訴訟でも、同声明による請求権放棄を理由とした原告敗訴が続いている。

 一方、昨年4月の最高裁判決は賠償請求を退けたものの、「被害者の精神的・肉体的苦痛は極めて大きく、関係者による救済に向けた努力が期待される」とし、企業や国の対応を求めた。

 同じく第二次世界大戦中に強制労働を行ったドイツでは2000年、独政府と民間企業が、被害者に賠償金の支払いを決めている。

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