憩(かい)への手紙 それから
上【ありがとう】 父子で練習 母への言葉 (2009/06/16)
5月の「母の日」を前に、札幌市東区のアパートを訪ねた。中学校教師の鎌田守さん(29)と、2歳の長男、憩(かい)ちゃんに会った。
憩ちゃんは大好きなミニカーを持ってきては自慢する。「最近は納豆をひとりで食べられるようにもなったんですよ」と、守さんは目を細めた。 しかし、母の茜(あかね)さんはタンスの上の写真の中で、にっこりほほ笑んでいるだけだった。 茜さんは、余命を宣告された末期がん患者だった。 2006年、左あごの下に、がんと肉腫が同時に存在する「がん肉腫」が見つかった。がん患者の40万人に1人というまれでやっかいながん。 そのとき、妊娠16週目だった。 医者は「子どもをあきらめ、手術をするように」と勧めた。しかし、看護師でもあった茜さんが選んだのは、自分の命ではなく、おなかの子だった。 北海道新聞は昨年4月、「憩への手紙 ママはがんと闘う」という7回連載を夕刊に掲載した。茜さんや、その家族の姿を通し、がんと生きること、命の尊さを伝えたかった。 その後、茜さんのがんは肺、そして脳にまで転移した。具合が悪く、今年1月下旬から、末期がん患者らが専門ケアを受けるホスピス病院に入院した。しかし、茜さんは半月後、「家に帰る」と言い出した。 帰宅すると、茜さんは4年前の結婚式の写真を持ち出した。「遺影を選ぶ」という。アルバムをめくりながら「楽しかったよね。また、やりたいな」と、守さんに笑いかけた。 ある夜。守さんの介助で入浴した後、髪を乾かしていた茜さんに憩ちゃんが走り寄ってきて、言った。 「ママ、産んでくれて、ありがとう」 茜さんは「なんて言ったの?」と繰り返し聞いた。そして、言った。「こちらこそ、産ませてくれてありがとね」。細い腕でしっかりと抱きしめた。 守さんがいつかは憩ちゃんの口から伝えたかった言葉。夜、茜さんに内緒で、父子で練習したひと言だった。 その翌日の2月25日午後、茜さんは自宅のベッドで本当に眠るように息を引き取った。29歳だった。 2月27日の通夜。親族は「静かに送りたい」と、新聞の「おくやみ欄」にも告知していなかった。しかし、350人もの弔問客で会場はあふれた。この1年、がんと生き、子どもを育てる喜びを全国で講演し、交友を結んできた茜さんの死の知らせは、広がっていた。 たくさんの花に浮かんだ遺影の茜さんは、純白のウエディングドレスを着て、笑っていた。あの日に選んだ一枚だった。 末期がんで「命の選択」を迫られ、子どもを産むことを選んだ女性が闘病の末、亡くなった。しかし、その生き方は多くの人に勇気を与えた。昨年4月の連載から1年余り。鎌田茜さんの「それから」を伝える。 ■夫・鎌田守さんの手記 茜がいなくなって間もなく4カ月になります。茜がいてくれて、私と憩はどれほど心強く、楽しく、うれしかったことか。辛(つら)く、苦しい時もありましたが、茜は、「日本一の家族になる」と話し、生きることをあきらめず、一生懸命でした。 憩は2歳7カ月になりました。たくさん話し、動いて、笑っています。保育園にも少しずつ慣れてきました。 がん肉腫のがんは、2007年末に肺へ転移し、余命半年と告げられましたが、家族は多くの方々との出会いに支えられ、充実した生活ができました。昨年暮れには、ご縁に感謝しながら、「この1年、楽しめたね」と茜と話しました。 茜は「私が死んでも、あなたと憩に寂しい思いをさせたくないから縁つなぎする」と言ってくれました。いまでも、私たち父子を気遣う手紙やメールをいただきます。 決して甘えてはいけませんが、縁によって支えられる幸せがあることを、たくさんの方と憩に伝えたいと思います。 |
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