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マラソン人生 まだ半ば 札幌学院大名誉教授・笹岡征雄さん

1.【学生時代】リレーで日本新の一員に (2009/04/13)

昼も夜も練習を積み、短中距離のランナーとして頑張っていた中大時代の私(右)=1962年6月、東京・国立競技場

 私は岩見沢駅に近い中央市場の「笹岡鮮魚店」の次男として生まれました。小学生の時から一人で汽車に乗り、三笠の得意先にリヤカーで魚を配達していました。でっち奉公から店を持った父の岩雄は、兄よりも商売向きの私に継がせたかったようで、自分もそのつもりでした。

 生来、体は強く、岩見沢小六年の時、市内の陸上大会の百メートル走に代表で出ました。競技者人生のスタートでしたが、まさか生涯、陸上競技に取りつかれることになろうとは…。

 東光中では陸上部に進み、二年生の秋の南空知大会千五百メートルの三位はうれしかった。翌年八月に美唄で開かれた大会でも良い成績が出ました。それはNHKの「放送陸上」といって、全国各地の記録を集計して順位をつける第一回の大会でした。

 一九五四年、札幌を舞台にスケートの世界選手権が開かれ、国体の秋季大会も札幌や岩見沢でありました。紋別出身の卓球選手田中利明さんが世界チャンピオンに輝くなど、北海道でスポーツの明るい話題が多かった。そんな時代の雰囲気を感じ、魚屋より陸上への気持ちが強くなったのです。

 中学を終えたら家業をと考えていた両親に思いを話し、わかってもらえました。迷わず選んだのはスポーツの名門北海高です。南部忠平さんはじめ偉大な先輩がいます。練習はスパルタそのもので、質量ともに生半可なものでありません。

 猛練習のかいあり、二年生でインターハイに出場し、札幌選手権の四百メートル、四百メートルリレーなど四種目で優勝しました。汽車通学から下宿生活に切り替えました。三年生になると記録は伸びないけれど、スランプと戦い、体調を崩しながらレースに出て精神的に強くなりました。

 五九年、陸上界の雄、中央大に進みました。東京・練馬区の豊島園の近く、大根畑に囲まれた合宿所で全国から集まった百二十人余りが寝起きをともにします。全員が朝六時から練習し、当時駿河台にあった大学で授業を受け、午後三時すぎから本格的な練習です。

 夢の東京五輪が五年後に控えています。みんな目の色を変え、死にものぐるいでした。持久力をつけたい私もひたすら走りました。

 一年生の夏休みに札幌に戻って出場した全道選手権で奇跡が待ってました。四百メートル障害で自分では好記録の59秒0で優勝です。北海道チャンピオンはもちろん初めて。キツネにつままれた気分でしたが、この種目で三連覇することになります。

 忘れられないのは大学最後のシーズン。三月の日本室内選手権一マイルリレー(一六〇九・三メートル)を中大の三走で走りました。何と3分35秒4の日本室内新記録が出ました。

 ところが四月、油井潔雄君という大型新人が中大に入学してきました。のちの東京五輪四百メートル障害の日本代表です。自分は補欠メンバーに逆戻り。日本新記録樹立の栄光は一瞬にして終わりました。

 後輩に正選手の座を奪われました。しかし、腐るどころか陸上というスポーツがますます好きになりました。走る楽しさを広めたいと思ったのです。

<略歴>

 ささおか・まさお 1941年(昭和16年)、岩見沢市生まれ。北海高、中央大と陸上短距離選手として活躍。北星男子高(現北星大付高)陸上部監督を経て、札幌短大で女子選手の駅伝、長距離走を指導。77年のボストンマラソン完走に導き、「日本女子マラソンのパイオニア」となる。北海道レディースマラソンクラブを設立し、女性ランナーの拡大に貢献。札幌学院大では男子駅伝チームの全道大会10連覇を達成、中国との駅伝交流を続けた。北海道ボブスレー・リュージュ連盟理事長を10年務めた。中学以来、陸上の大会通算700回出場の現役ランナー。札幌市在住。68歳。

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