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乗りこえられぬかべなんかない プロ野球選手 稲葉篤紀(いなば・あつのり)さん(39) はい!質問 (2012/01/07)

「たくさんの子どもたちがファイターズの帽子をかぶるようなチームにしたい」と話す稲葉篤紀選手

昨年10月11日、日ハムがクライマックスシリーズ進出を決めた対埼玉西武(さいたませいぶ)ライオンズ戦で、決勝の12号2ランホームランを打つ

 2012年最初の「はい!質問(しつもん)」は、プロ野球北海道日本ハムファイターズの稲葉篤紀(いなばあつのり)選手(39)です。ファイターズ入団(にゅうだん)後の2005年から7シーズンにわたり、チームの主力として活躍(かつやく)してきました。北海道を愛し、ファンを大切にすることから、最も人気のある選手の1人です。「ファイターズがもっと北海道の人に愛されるチームになる」ことが願いだそうです。そんな熱い思いは、どこから生まれるのでしょうか。《聞き手・安藤徹(あんどうとおる)》

応援で勇気、記憶残る選手に

 −−子どもをはじめ、多くのファンの応援(おうえん)をどのように感じていますか。

 「ファンの応援は、本当にありがたいですね。すごく勇気をもらっています。特に、ランナーが二塁(るい)か三塁にいる場面で打席に入った時、ファンが一斉(いっせい)にジャンプして応援する『稲葉ジャンプ』は、ぼくだけがやってもらえる応援です。気持ちが高ぶりすぎていても、稲葉ジャンプのおかげで気持ちがすーっと落ち着きます」

 −−北海道やチームについて、常々(つねづね)熱い思いを語っています。

 「2005年に、アメリカの大リーグへの挑戦(ちょうせん)という夢(ゆめ)がかなわず、ヤクルトスワローズから移籍(いせき)しましたが、1年目から大きな応援をしてもらいました。気持ちがしずんでいた中で、受け入れられたことがうれしかった。その期待に応(こた)えたいと思ってやってきましたし、選手として成長できました」

 −−プロ野球選手になって良かったことは何ですか。

 「やっぱり、夢をあたえることができることです。プロになって、1995年に1軍の初打席で初ホームランを打ちました。ものすごく緊張(きんちょう)していたので、打った瞬間(しゅんかん)の大歓声(かんせい)や感動が今でも忘(わす)れられません。その原点を大切に今も戦っています」

 −−逆につらかったことは。

 「これまで、やめようかと思ったことは、何度もあります。1997、98年に続けて、かたとひじの手術(しゅじゅつ)をした時がつらかったです。手術の後は、もう治(なお)らないのではないか、もう投げられないのではないかと、不安な日々を過(す)ごしました。そうした苦しさからぬけ出せたのは、ファンの応援でした。そして、愛知県に住む両親のことをよく思いました。自分がやめてしまったら、両親にはずかしい思いをさせると考えて、ふみとどまりました」

 −−何かかべにぶつかった時、どうやったら乗りこえられますか。

 「小学生の時、いじめにあいました。気持ちをまぎらわすことができたのは、野球があったからです。その後もたくさんのかべがありましたが、乗りこえられないかべは、あたえられない、と信じています。何かかべにぶつかった時は、この苦労を乗りこえれば、きっと一回り成長できると信じて向かっていくようにしています」

 −−ファイターズをどのようなチームにするのが目標ですか。

 「今のファイターズは、どちらかというと地味なチーム。ホームランをばんばん打つわけでも、点がどんどん入るわけでもないのです。こつこつとした野球をしながらも、優勝(ゆうしょう)争いにからむことができるようにしたい。そして、もっと地域(ちいき)に密着(みっちゃく)したチームになってほしいです。多くの子どもたちが、ファイターズの帽子をかぶるような愛されるチームにしたいです」

 −−稲葉選手自身の目標は。

 「2千本安打まであと34本なので、早く達成したい。しかし、それ以上に記憶(きおく)に残る選手になりたいですね。引退(いんたい)後も、思い出してもらったり、ほかの選手の目標にされるような。稲葉ジャンプは、その一つかもしれませんね。『ジャンプがすごかった』と覚えていてほしい。そのためにも、稲葉ジャンプの時に、しっかりヒットを打てるようなバッターでありたいです」

<略歴(りゃくれき)>
 1972年愛知(あいち)県生まれ。中京(ちゅうきょう)高校《現(げん)中京大中京高校》、法政(ほうせい)大学を経て95年、ヤクルトスワローズにドラフト3位で入団(にゅうだん)。1年目から外野手として1軍でプレー。05年に北海道日本ハムファイターズに移籍(いせき)し中心選手として06、07、09年のリーグ優勝(ゆうしょう)に貢献(こうけん)した。06年は日本シリーズ最優秀(さいゆうしゅう)選手(MVP)にも選ばれた。08年、北京オリンピック日本代表。09年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表チームでは4番を打った。守備(しゅび)は主にライトやファースト。プロ入り後、17シーズンの通算成績は245本塁打(ほんるいだ)、953打点、打率(だりつ)2割(わり)9分。首位打者1回(07年)。185センチ、87キロ、左投げ左打ち。背番号(せばんごう)41。



<通信員だより>2つの目標にがんばる

宮村竜汰(みやむらりゅうた)《札幌(さっぽろ)市・南月寒(みなみつきさむ)小4年》

 今年のぼくの目標は二つあります。一つ目は野球のことです。ぼくは去年、南月寒小の野球チーム、月寒スターズに入団(にゅうだん)しました。チームのみんなとキャッチボールや、ランニングをするのが楽しいです。グラウンドは雪で使えないので、体育館で練習を一生懸命(けんめい)がんばっています。

 ぼくは昨シーズン何度か試合に出してもらえましたが、積極的に打っていけなかったし、守りでもエラーをよくしました。今年はもっとうまくなって、そのミスを無くし、試合に勝ちたいです。

 二つ目は生活のことです。ぼくはおそくねがちで、つかれがたまったりしてしまいます。生活にメリハリをつけて、しっかり栄養をとって勉強をやる時はやって、早めにねます。



<ニュースなるほど!>金正日総書記死去 軍が一番、核兵器もつくる

 朝鮮(ちょうせん)半島の北側の国、北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記(そうしょき)が昨年12月、69歳(さい)で亡(な)くなりました。北朝鮮は大きな国ではありませんが、総書記死去のニュースは世界中で大きく取り上げられました。

 朝鮮半島はもとは一つの国でしたが、1910年(明治43年)から日本が支配(しはい)する「植民地」になりました。45年、第2次世界大戦で日本が負けたので植民地ではなくなりましたが、米国やソ連(今のロシア)など大国のつごうで、南北に分けられ、北は北朝鮮、南は韓国(かんこく)になりました。50年から3年間、南北ではげしい戦争をしました。今は戦いを中止しているだけなので、南北のさかいは国境(こっきょう)と言わず「軍事境界線」とよびます。

 また戦争になるかもしれないという不安から、両国は強い軍隊を持ち、一人の強い政治家(せいじか)が引っぱる独裁(どくさい)的な体制(たいせい)になりました。

 韓国はとちゅうで独裁をやめましたが、北朝鮮は総書記の父、金日成(キムイルソン)国家主席の死去後も、総書記が独裁を続けました。総書記は軍が一番大事という考えで、核(かく)兵器もつくりました。総書記の三男金正恩(キムジョンウン)氏(28)があとをつぐとみられていますが、今後どうなるか、世界中が注目しています。

 北朝鮮国内では、多くの人がまずしく、自由もなく、苦しんでいます。日本との関係では、植民地時代の問題が残っているほか、日本人を無理やり北朝鮮に連れ去った「拉致事件(らちじけん)」も解決(かいけつ)していません。

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