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道新小学生新聞フムフム

ひばくの苦しみ 韓国で今なお 陜川の原爆被害者施設を訪ねて/通信員リポート/ニュース教室 (2010/09/11)

 

110人(にん)が生活(せいかつ)する原爆被害者福祉会館(げんばくひがいしゃふくしかいかん)

ひばくした時の経験(けいけん)を語(かた)る安(アン)さん

慰霊閣(いれいかく)を案内(あんない)してくれた金(キム)さん

チャンギという韓国(かんこく)の将(しょう)ぎを楽(たの)しむお年寄(としよ)りたち

 韓国南部(かんこくなんぶ)の陜川(ハプチョン)は「韓国(かんこく)のヒロシマ」と呼(よ)ばれています。日本(にっぽん)が朝鮮半島(ちょうせんはんとう)を領土(りょうど)にした1910年《明治(めいじ)43年》の韓国併合以後(かんこくへいごういご)、陜川(ハプチョン)から多(おお)くの人(ひと)が生活苦(せいかつく)のため、軍事産業(ぐんじさんぎょう)で栄(さか)えていた広島(ひろしま)に移(うつ)り住(す)みました。日本(にっぽん)と戦争(せんそう)していたアメリカが45年《昭和(しょうわ)20年》8月6日に広島(ひろしま)に原爆(げんばく)を落(お)とした時(とき)、日本人(にっぽんじん)とともにたくさんの朝鮮人(ちょうせんじん)が放射線(ほうしゃせん)を浴(あ)び、ひばくしました。戦後(せんご)65年たった今(いま)も体(からだ)の不調(ふちょう)などになやまされています。韓国併合(かんこくへいごう)から100年、こうしたお年寄(としよ)りが暮(く)らす施設(しせつ)「陜川原爆被害者福祉会館(ハプチョンげんばくひがいしゃふくしかいかん)」を訪(たず)ねました。《韓国(かんこく)・陜川(ハプチョン)で稲塚寛子(いなづかひろこ)、写真(しゃしん)も》

広島、長崎で放射線浴びる 病気や差別「つらい」

 アメリカが原爆(げんばく)を落(お)とした広島(ひろしま)と長崎(ながさき)のひばく者(しゃ)約(やく)70万人(にん)のうち、朝鮮半島出身者(ちょうせんはんとうしゅっしんしゃ)は約(やく)1割(わり)といわれます。戦後(せんご)、韓国(かんこく)に帰国(きこく)した人(ひと)は2万数(すう)千人(にん)で、韓国(かんこく)のひばく登録者数(とうろくしゃすう)は現在(げんざい)、約(やく)2600人(にん)です。北朝鮮(きたちょうせん)にも約(やく)2千人(にん)が帰国(きこく)したとみられていますが、くわしいことはわかっていません。

 多(おお)くの人(ひと)は帰国後(きこくご)も原爆(げんばく)が原因(げんいん)の病気(びょうき)や後遺(こうい)しょうになやまされました。十分(じゅうぶん)な治(ち)りょうを受(う)けることも難(むずか)しい状(じょう)きょうでした。90年に、こうした人(ひと)たちの支(し)えんをすることを、日本(にっぽん)と韓国(かんこく)の間(あいだ)でようやく合意(ごうい)。福祉会館(ふくしかいかん)は96年、日本政府(にっぽんせいふ)が出(だ)した40億円(おくえん)を基(もと)に造(つく)られました。鉄筋(てっきん)コンクリート地下(ちか)1階(かい)、地上(ちじょう)3階建(かいだ)てで、延(の)べゆか面積(めんせき)は約(やく)3400平方(へいほう)メートル。敷地内(しきちない)には原爆(げんばく)で亡(な)くなった入所者(にゅうしょしゃ)ら967人(にん)をまつった「慰霊閣(いれいかく)」もあり、毎年(まいとし)8月6日、慰霊祭(いれいさい)をしています。

 この施設(しせつ)は定員(ていいん)80人(にん)でしたが増築(ぞうちく)され、現在(げんざい)65〜98さいの110人(にん)が暮(く)らし、医(い)りょう支(し)えんなどを受(う)けています。約(やく)7割(わり)が陜川出身(ハプチョンしゅっしん)の人(ひと)です。平均(へいきん)年(ねん)れいは77.8さい。「入居(にゅうきょ)を待(ま)っている人(ひと)も123人(にん)います」と姜守漢(カンスハン)・企画運営課長(きかくうんえいかちょう)は説明(せつめい)します。毎週(まいしゅう)1回(かい)の健(けん)しんのほか、ヨガ教室(きょうしつ)なども開(ひら)かれています。敷地内(しきちない)の畑(はたけ)でトウガラシを作(つく)っている人(ひと)もいます。

 7さいの時(とき)、陜川(ハプチョン)からおじいさんたちが暮(く)らす広島(ひろしま)に行(い)った安月嬋(アンウォルソン)さん(80)は、勤(つと)めていた職場(しょくば)でひばく。15さいでした。建物(たてもの)の下(した)じきになり顔中(かおじゅう)にガラスの破片(はへん)がささりました。

 「やけどやけがをした人(ひと)がいっぱいで、毎日(まいにち)、たくさんの人(ひと)が死(し)んでいきました」とふり返(かえ)ります。「戦後(せんご)、《朝鮮人(ちょうせんじん)は》日本(にっぽん)にいると殺(ころ)されるといううわさが流(なが)れ、あわてて家族(かぞく)と帰国(きこく)しました」

 ひばくした時(とき)、家(いえ)にもどれなかった安(アン)さんを探(さが)し歩(ある)いた両親(りょうしん)は、帰国(きこく)してから数年後(すうねんご)に相次(あいつ)いで亡(な)くなりました。「原爆(げんばく)のせいで、つらい思(おも)いをしました」と話(はな)します。

 入所(にゅうしょ)12年になる金日祚(キムイルチョ)さん(81)は、原因不明(げんいんふめい)の頭痛(ずつう)になやまされていましたが、ひばく者(しゃ)ということは長年(ながねん)、周(まわ)りには秘密(ひみつ)にしていました。「ひばくした人(ひと)やその子(こ)どもは『変(へん)な病気(びょうき)がある』などと、差別(さべつ)されていたからです」

 4人(にん)の子(こ)がみんな結(けっ)こんした後(あと)、金(キム)さんは日本政府(にっぽんせいふ)からひばく者として正式(せいしき)に認(みと)められ、93年に日本(にっぽん)の病院(びょういん)で治(ち)りょうを受(う)けました。その後(ご)、同(おな)じ立場(たちば)の人(ひと)が原爆被害者(げんばくひがいしゃ)の認定(にんてい)を受(う)けるために来日(らいにち)する時(とき)に、通訳(つうやく)をして協力(きょうりょく)したこともあります。金(きん)さんは「平和(へいわ)が一番(いちばん)です。核兵器(かくへいき)のない世界(せかい)になってほしいですね」と力(ちから)をこめました。

 施設(しせつ)を訪(たず)ねて、隣国(りんごく)にも原爆被害(げんばくひがい)に苦(くる)しむ人(ひと)たちが今(いま)もいることをしっかり覚(おぼ)えておきたいと思(おも)いました。



<通信員リポート> アイヌ文化の学習楽しみ

山本綺花(やまもと・あやか) 登別市(のぼりべつし)・幌別西小(ほろべつにししょう)4年

 私(わたし)は、アイヌ文化(ぶんか)とアイヌ語(ご)に興味(きょうみ)があります。

 登別市(のぼりべつし)の地名(ちめい)は、もともとアイヌ語(ご)の「ヌプル・ペッ」が由来(ゆらい)です。「色(いろ)のこい・川(かわ)」という意味(いみ)で、温泉(おんせん)が流(なが)れ込(こ)んだ川(かわ)がいつも白(しろ)くにごっていたことからつけられたと言(い)われています。

 私(わたし)の住(す)んでいる幌別地区(ほろべつちく)はアイヌ語(ご)の「ポロ・ペッ」からきており、「大(おお)きい川(かわ)」という意味(いみ)です。ほかにもアイヌ語(ご)からきた地名(ちめい)はたくさんあります。

 このことから登別(のぼりべつ)は昔(むかし)、アイヌの人(ひと)たちとのくらしと関係(かんけい)が深(ふか)かったことがわかります。これから私(わたし)たちの学校(がっこう)でもアイヌ文化(ぶんか)の学習(がくしゅう)があり、とても楽(たの)しみです。



<ニュース教室> シベリア抑留 寒さ、うえ 6万人死亡

 1945年8月に終(お)わった太平洋戦争(たいへいようせんそう)でソ連(れん)《今(いま)のロシア》のほりょになり、シベリアの鉄道建設(てつどうけんせつ)などに働(はたら)かされた日本兵(にほんへい)の「シベリア抑留(よくりゅう)」のことを聞(き)いたことがあるだろうか。

 抑留(よくりゅう)とは人間(にんげん)を強制的(きょうせいてき)にその地(ち)に留(とど)めておくこと。抑留(よくりゅう)された人(ひと)は60万人(にん)をこえ、そのうち6万人(にん)余(あま)りが死亡(しぼう)したといわれますが、くわしい実態(じったい)は今(いま)も明(あき)らかになっていません。この中(なか)には日本人(にほんじん)だけでなく朝鮮人(ちょうせんじん)や台湾人(たいわんじん)もふくまれています。死亡者(しぼうしゃ)は氷点下(ひょうてんか)40度(ど)をこえる真冬(まふゆ)の寒(さむ)さや貧(まず)しい食事(しょくじ)で働(はたら)かされ、力(ちから)つきました。シベリア抑留(よくりゅう)は太平洋戦争(たいへいようせんそう)の中(なか)でも最(もっと)も悲(ひ)さんな歴史(れきし)の一つです。

 今(いま)も生(い)きている日本人(にほんじん)の抑留体験者(よくりゅうたいけんしゃ)は約(やく)8万人(にん)といわれます。かれらに国(くに)が特別給付金(とくべつきゅうふきん)を支払(しはら)うことになり、何(なん)十年間(かん)にわたる願(ねが)いの一部(いちぶ)がやっとかないました。さらにかれらは抑留(よくりゅう)の実態(じったい)をくわしく調(しら)べ、平和(へいわ)のために将来(しょうらい)へと伝(つた)えるよう国(くに)に求(もと)める要望書(ようぼうしょ)を出(だ)しました。

 ちょうど20年前(まえ)、シベリアの小(ちい)さな町(まち)に北海道出身(ほっかいどうしゅっしん)の抑留体験者(よくりゅうたいけんしゃ)を取材(しゅざい)で訪(たず)ねたことがあります。そのつらい話(はなし)には耳(みみ)をふさぎたくなるほどでした。かれは現地(げんち)にとどまって結(けっ)こんし、孫(まご)たちに囲(かこ)まれて暮(く)らしていました。当時(とうじ)のかれは68歳(さい)。連(れん)らくはとだえましたが、みなさんにもいつかシベリア抑留(よくりゅう)の歴史(れきし)をぜひ学(まな)んでほしいと願(ねが)っています。

《編集委員(へんしゅういいん) 千龍正夫(せんりゅうまさお)》

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