3・11あの日から【宮城・気仙沼の冬】
1.<父から息子へ> 人生観、背中で伝える(2012/01/29)
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| 仮設住宅前で千葉さん(左)が上げるボールを打ち返す瑛太君。千葉さんも小中高と野球に熱中しただけに、指導に力が入る=24日、宮城県気仙沼市岩月寺沢 |
仮設住宅が並ぶ宮城県気仙沼市内の高台。1月24日午後6時すぎ、街灯が野球のトスバッティングをする親子を照らしていた。
「しっかり振れ」。市内で牛乳販売店を営む千葉清英さん(42)がトスを上げ、長男の瑛太君(10)=面瀬(おもせ)小4年=が白い息を吐きながらバットを振る。
残された2人
千葉さんは東日本大震災の津波で妻(41)、長女(6)、次女(3)と近くに住む義父(68)、義母(66)、義妹(38)、おい(5カ月)の7人を失った。残されたのが千葉さんと瑛太君だった。
親子の練習は週1回程度。地元の少年野球チームに入る瑛太君にとっては、仕事に追われる父親と触れ合う貴重な時間だ。
「気が狂いそうだった」。震災から約3週間後に見つかった7人の遺体を前にした時、千葉さんはしばらく立てなかった。
市内の死者・行方不明者は1364人。火葬まで2週間かかると言われ、土葬を勧められた。
「嫌です」。土葬は断った。7人の遺体の腐敗を防ぐには、1日70キロのドライアイスが必要だった。同業者や知人のつてを頼り、2週間、毎日かき集め、火葬まで遺体を保管した。「やってあげられることは全部したかった」。往復5時間かけ、盛岡市内まで取りに行ったこともある。
4月中旬、7人の葬儀を終えると、千葉さんは「ボーとしていたら悲しくなる」と感じ、仕事に没頭した。知人から倉庫を借り、葬儀から9日後に店を再開した。従業員9人も解雇しなかった。
牛乳宅配軒数を6月までに、現在の800から千軒に増やすのが目標。「あきらめないでやり続ける」。自らと従業員を励ます言葉を紙に書き、事務所の壁に張った。
7カ月後の涙
仕事にのめり込む一方、仮設住宅の呼び鈴が鳴ると、期待してドアを開けてしまうことがある。「いつか妻や娘が『ただいま』って笑顔で帰ってくるんじゃないかと思って」
瑛太君は母や妹の死を知らされた時も、葬儀の時も、涙を見せなかった。
昨年10月に気仙沼市内のホテルで開かれた地区の慰霊祭では、遺族代表としてあいさつした。
「ママ、旅行にもたくさん行ったね。まだまだ、いっぱい行きたかったのに」。妹たちには「もっともっと、けんかがしたかったです」と呼びかけた。
会場で大人たちのすすり泣きが聞こえ始めた時、瑛太君の目から涙があふれた。「ちばいち(牛乳販売店の会社名)の家族に生まれてきてよかったです。ありがとう」。最後は声がとぎれとぎれになった。震災から7カ月。瑛太君が人前で初めて泣いた。
新たな夢追う
千葉さんには夢がある。市内にはないバッティングセンターを年内に開業することだ。「がれき処理などが優先され、子供が思いっきり体を動かせるような場所が少ない」。開業には3千万円が必要で、自己資金に加え、賛同者を募って費用を集める計画だ。
2月には市内の仮設商店街に、たい焼きや駄菓子を売る店を開く。3月10、11日に東京で開かれる物産展では自ら考案した「のむヨーグルト」を販売する。売り上げはバッティングセンターの開業資金に充てるつもりだ。
「震災で人生観が180度変わった。生きたくても生きられなかった人がいる。明日死ぬかもしれないのだから、後悔しないように生きると決めた」
次々と自らに目標を課すのは、瑛太君の道しるべになりたいという思いもあるからだ。
「思い通りに生きろ。それを背中で伝えたいんです」
あの日と同じような寒さが包む気仙沼市。時に立ち止まりながら、一歩一歩前へ進む被災者の姿を追った。(報道本部の細川伸哉、徳永仁、写真部の藤井泰生が担当し、6回連載しました)
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